小説「SaaSの死 – AIエージェントカンパニー」値札 変革の視点

企業価値とは何か

第14章では、羽田物流ホールディングスとアクティビストファンドとの攻防を描きました。

しかし、この章で描きたかったのは、「会社を守ろうとする経営者」と「短期利益を求める株主」の単純な対立ではありません。

むしろ、城戸ファンドが突きつけた問いの多くは正しいものでした。

使われていない資産をなぜ持つのか。

資本コストを下回る事業をなぜ続けるのか。

余剰現金をなぜ積み上げるのか。

成長投資をするのであれば、それによってどのようなリターンを生み出すのか。

企業が利益を生み出せる状態になったとき、次に問われるのは「その利益を何に使うのか」です。

これは資本配分、すなわちCapital Allocationの問題です。

現場に合理性を求めるなら、資本にも合理性が必要になる

羽田物流は、それまでの改革でさまざまな無駄をなくしてきました。

使われていないSaaSを切る。意味の薄い会議をやめる。重複した業務をなくす。採算の合わない仕事を見直す。人がシステム間をつなぐ仕事を減らす。

その論理を、城戸ファンドは今度は会社そのものに向けました。

その資産は必要なのか。

その子会社は必要なのか。

その株式を持ち続ける意味はあるのか。

その現金を寝かせておく合理性はあるのか。

これは経営側にとって非常に厳しい問いです。

現場の社員に対して「生産性を高めてください」と求めながら、経営者が資本を非効率に使っているのであれば、論理は一貫しません。

企業変革は、業務改革だけでは完結しません。

事業ポートフォリオ、資産構成、投資、株主還元まで含めて、経営資源全体の使い方を変えていく必要があります。

この意味では、アクティビストが突きつける資本効率の問いは、ときに経営変革をもう一段進めるきっかけになり得ます。

「アクティビスト=悪」ではない

アクティビストという言葉には、企業を短期的に切り刻み、資産を売却させ、配当や自社株買いによって利益を得る投資家というイメージが付きまといます。

もちろん、そのようなケースも存在します。

一方で、経営陣が見過ごしてきた資本効率の低さや、惰性で維持されている事業、過剰な政策保有株式、説明されない現預金などに光を当てる役割もあります。

重要なのは、「アクティビストだから間違っている」「経営者だから長期的に正しい」と最初から決めつけないことです。

城戸ファンドの提言が厄介だったのは、かなりの部分が正しかったからです。

経営者が「長期的な企業価値」を理由に何でも正当化できるのであれば、資本効率という概念は意味を失います。

三年後に価値が出る。

五年後に価値が出る。

いつか大きく育つ。

そう言い続ければ、どんな赤字事業も、どんな遊休資産も残すことができます。

長期志向と経営規律は、両立しなければなりません。

ROICは「事業を切るための数字」ではない

第14章では、羽田物流が全事業へROIC基準を導入する場面を描きました。

ROICは、投下した資本に対して事業がどれだけ利益を生み出しているかを見る指標です。

重要なのは、ROICを単なる「事業を切るための数字」にしないことです。

資本コストを下回る事業があったとき、すぐに撤退する必要があるとは限りません。

なぜ低いのか。

改善できるのか。

将来の成長投資期間なのか。

他の事業とのシナジーがあるのか。

顧客獲得や技術蓄積など、財務数値だけでは見えない役割があるのか。

そこまで考えた上で判断する必要があります。

ROICとは経営判断を代替する数字ではありません。

むしろ、「なぜこの事業へ資本を投じ続けるのか」を経営者に説明させるための数字だと考えた方がよいでしょう。

値段と価値は同じではない

アクティビストが企業を見るとき、さまざまな方法で企業価値を計算します。

物流事業はいくら。

不動産はいくら。

保有株式はいくら。

AI事業はいくら。

現預金はいくら。

それぞれを分けて評価すれば、現在の株価よりはるかに高い価値があるという結論になることがあります。

これは重要な分析です。

しかし、企業の価値には、現在の財務数値だけでは測れないものもあります。

人材。

顧客との関係。

ブランド。

現場に蓄積されたノウハウ。

データ。

組織能力。

将来生まれるかもしれない技術。

まだ存在していない事業へ進む選択肢。

経営学やファイナンスでは、こうした将来の選択可能性を「リアルオプション」として考えることがあります。

羽田物流がAI基盤を保有する価値も、AIソフトウェアそのものの売却価格だけではありません。

物流現場から毎日データが入り、AIが改善され、その知見が自動運転、倉庫ロボット、需要予測、共同配送へ広がっていく。

その可能性まで含めれば、物流事業とAIを一体で持つことに意味があるかもしれません。

一方で、「将来価値がある」と言えば、どんな投資でも正当化できてしまいます。

だから経営者には、未来への投資についても規律が必要です。

何を実現するのか。

いくら投資するのか。

いつまでに成果を出すのか。

どのKPIを見るのか。

成果が出なければ、いつ見直すのか。

第14章で真田が「三年間で結果を出す。出なければ見直す」と答えたのは、そのためです。

未来へ賭ける。

しかし、無期限には賭けない。

この姿勢が、長期経営と資本規律を両立させる一つの考え方だと思います。

AIエージェントは投資家側にも使われる

第14章では、もう一つ近未来的なテーマを入れました。

城戸ファンド自身もAIエージェントを使っているという設定です。

これは、企業側だけがAIによって生産性を上げるわけではない、ということを意味します。

投資家もAIを使います。

有価証券報告書を読む。

過去の適時開示を調べる。

不動産情報を集める。

競合企業と比較する。

採用情報から人員動向を推測する。

事業別の採算を推計する。

経営陣の発言と実績を比較する。

従来なら何人ものアナリストが長期間かけて行っていた企業分析を、AIエージェントが継続的に実行できるようになる可能性があります。

企業経営がAIによって高速化するなら、資本市場もAIによって高速化します。

企業が情報を開示すると、短時間で分析される。

競合との違いがすぐに比較される。

資本効率の低い事業も見つけられる。

経営者が説明していることと実際の数字の矛盾も発見される。

AI時代には、経営側の情報優位性は小さくなっていく可能性があります。

経営者に求められるのは、「投資家に見つからないようにすること」ではなくなります。

最初から、なぜその資本配分をしているのかを説明できる経営をすることです。

資本市場は敵ではなく、鏡である

城戸は株主総会の後、真田に「市場は敵ではありません。鏡ですから」と言います。

もちろん、市場が常に正しいわけではありません。

株価は短期的に大きく振れます。将来価値を過小評価することもあります。流行に左右されることもあります。

しかし、市場からの評価が低いときに、すべてを「市場が分かっていない」で片付けることも危険です。

自分たちの戦略が伝わっていないのかもしれない。

資本配分が悪いのかもしれない。

成果が出ていないのかもしれない。

将来投資について十分な説明ができていないのかもしれない。

市場から突きつけられた問いを一度受け止め、自社の経営を見直す。

その意味では、資本市場は確かに鏡になり得ます。

重要なのは、その鏡に映った姿を見て、すべて市場の言う通りに変えることでも、鏡そのものを壊すことでもありません。

何を受け入れ、何を守るのかを経営者自身が決めることです。

企業価値向上とは、株価を上げることだけではない

企業価値向上という言葉は、しばしば株価上昇と同じ意味で使われます。

しかし、本来はもう少し広い概念だと思います。

利益を生み出す力を強くする。

資本を効率的に使う。

将来の成長機会を作る。

人材と技術を蓄積する。

顧客から選ばれる。

社会に必要とされる。

そして、その結果として将来キャッシュフローを増やしていく。

株価は、その価値に対する市場の評価の一つです。

だからこそ、経営者は株価を無視してはいけません。しかし、株価だけを経営目的にしてもいけません。

第14章で杉崎は、

「値段と価値を、混同しない。」

とノートに書きます。

企業には値段がつきます。

時価総額。

買収価格。

不動産価値。

事業価値。

しかし、まだ値段のついていない価値もあります。

将来生まれる事業。

育っている人材。

蓄積されるデータ。

新しい技術。

顧客との信頼。

未来へ進むための選択肢。

経営とは、それらの価値を信じることだけではありません。

価値があることを証明していくことでもあります。

そして、価値がないと分かったものについては、捨てる勇気も必要です。

業務改革の先には、資本改革があります。

AIエージェントによって会社の仕事の仕方を変えたとしても、それだけで企業変革は終わりません。

生み出した利益を何へ振り向けるのか。

どの事業を残すのか。

何を売るのか。

どの未来へ賭けるのか。

そして、その賭けにいつまで時間を与えるのか。

最後に問われるのは、やはり経営判断です。

値段と価値を混同しない。

しかし同時に、

価値という言葉を、経営の甘えにも使わない。

この二つの間に立ち続けることが、企業価値を高める経営なのだと思います。