小説「SaaSの死 – AIエージェントカンパニー」 第18章 日本

埼玉物流センターの実証が終わってから、森下のチームは少しおかしくなった。

一つの倉庫を3D化しただけでは満足しなくなったのである。

羽田。横浜。仙台。名古屋。大阪。札幌。

羽田物流が保有、運営する主要物流センターが次々と仮想空間へ移されていった。

ラック。

バース。

フォークリフト。

AGV。

人間。

商品。

車両。

それぞれの動きがデジタルツイン上で再現される。

そこへ第15章で作った物流ネットワークのデータを重ねる。

どこから何が出荷されるのか。

どこへ運ばれるのか。

車両はどこにいるのか。

どの物流センターに余力があるのか。

どの道路が混んでいるのか。

どこで空車が生まれているのか。

一つ一つの物流センターが、地図上の点ではなくなった。

それぞれが中身を持つ空間になった。

ある日の経営会議。

真田は画面に表示された物流ネットワークをしばらく見ていた。

「これ、日本全部にしたらどうなる?」

森下が真田を見る。

「日本全部?」

「うちの拠点じゃなくて」

真田は画面を指した。

「日本そのもの」

森下は少し笑った。

「実は、ちょうど調べてました」

「何を?」

「日本がどこまでデータになってるか」

次の画面が出た。

全国に無数の点が表示されている。

真田が眉を寄せる。

「何これ?」

「ボーリングです」

「ゴルフ?」

「地盤調査です」

水沢が笑った。

森下は説明を続けた。

国が道路、河川、港湾などを整備する過程で調査してきた地盤情報。

ボーリング柱状図。

土質試験。

表層地盤。

深部地盤。

地震ハザード。

地盤増幅。

標高。

地形。

航空写真。

河川。

洪水。

土砂災害。

液状化。

道路。

橋梁。

トンネル。

港湾。

鉄道。

都市の3Dモデル。

気象。

人口。

「これ、全部公開データ?」

真田が聞いた。

「全部ではないです。でも、公開されているものだけでも相当あります」

次々にレイヤーが重なっていく。

日本列島の姿が変わった。

森下が言った。

「日本って、もうかなりデータ化されてるんですよ」

真田は画面を見たまま言った。

「じゃあ、もうデジタルツインできるじゃない」

「できないです」

「なんで?」

「つながってないからです」

会議室が静かになった。

「地盤は地盤。道路は道路。都市は都市。災害は災害。物流は物流。それぞれ別の目的で作られて、別の形式で管理されてる」

杉崎が笑った。

「会社と同じだな」

森下が杉崎を見る。

「ですよね」

杉崎は続けた。

「データはある。でも、つながってない」

佐藤が椅子にもたれる。

「国も人が配線になってるってことか」

誰かが笑った。

しかし杉崎は、その言葉が冗談だけではないと思った。

羽田物流も、かつてそうだった。

CRM。

会計。

請求。

配車。

勤怠。

契約。

それぞれに正しい情報があり、それぞれの担当者がいた。

しかし、それらをつなぐのは人間だった。

国土も同じなのかもしれない。

道路を管理する人。

地盤を見る人。

災害を見る人。

都市を見る人。

物流を見る人。

それぞれは専門家である。

しかし、「巨大地震が起きた三十六時間後に、どこで医薬品輸送能力が不足するか」という問いに、一つの画面で答える仕組みはない。

杉崎は画面を見ながら言った。

「もし、これ全部つながったら?」

森下が答えた。

「日本の物流の未来を、かなり具体的に試せると思います」

その二週間後。

羽田物流に国土交通省から連絡が入った。

埼玉物流センターの3D化とPhysical AIの実証について、話を聞きたいというものだった。

真田、杉崎、森下は霞が関へ向かった。

会議室には、物流政策を担当する職員だけではなく、道路、防災、都市、港湾に関わる担当者も参加していた。

最初に羽田物流側が見せたのは、埼玉物流センターだった。

現実の物流センター。

そのデジタルツイン。

人間。

AGV。

ロボット。

フォークリフト。

そして、そこから得られた改善結果。

説明が終わると、国側の担当者が言った。

「今度はこちらから一つ見ていただきたいものがあります」

大型モニターに日本地図が表示された。

最初は普通の地図だった。

そこへ、地盤情報が重なる。

次に道路。

橋梁。

河川。

標高。

浸水想定。

土砂災害。

港湾。

都市3Dモデル。

杉崎は思わず前へ身を乗り出した。

「これ、もうかなりありますね」

担当者が頷いた。

「あります」

「じゃあ、何が足りないんでしょう」

担当者は少し考えた。

「今日が足りないんです」

杉崎が聞き返す。

「今日?」

「国が持っているのは、国土の構造やリスクに関するデータです。でも、今この瞬間、どこに荷物があり、どこに車両があり、どの物流センターがどれだけ動けるのかまでは分かりません」

森下が言った。

「そこは民間側にある」

「そうです」

担当者が続ける。

「逆に、物流会社は今日の物流を知っています。でも、道路の構造、地盤、洪水、地震リスク、国土全体のインフラ状況を全部持っているわけではない」

真田が言った。

「片方だけじゃ、足りない」

「そういうことです」

佐藤がいれば、きっと喜んだだろうと杉崎は思った。

国が長年蓄積してきた、国土の記憶。

企業が毎日生み出している、経済活動の現在。

二つはこれまで別々に存在していた。

羽田物流と国との共同検討が始まった。

最初から日本全体を作ろうとはしなかった。

対象は、首都圏から東海、関西を結ぶ東西物流回廊。

日本の物流にとって最も重要な地域の一つである。

道路。

橋梁。

トンネル。

物流センター。

工場。

港湾。

鉄道貨物。

地盤。

地形。

標高。

地震ハザード。

液状化。

洪水。

土砂災害。

そこへ羽田物流の実際の荷物流動を重ねた。

トラックの位置。

積載率。

荷物。

顧客。

倉庫の処理能力。

協力会社のキャパシティ。

需要予測。

画面上で、日本が動き始めた。

ある日の検証会議。

森下が一つの物流センターを拡大する。

「ここ、羽田物流の重要拠点です」

真田が言う。

「知ってるよ」

「建物の耐震性もかなり高い」

「じゃあ安全だろ」

森下は別のレイヤーを重ねた。

地盤。

液状化。

道路。

橋梁。

施設周辺の色が変わった。

「建物そのものより、周辺アクセスの方が危ない可能性があります」

「どういうこと?」

「地震後に建物が無事でも、トラックが入れなくなる可能性があります」

一本のアクセス道路。

別の道路。

近くの橋。

それぞれに異なるリスクが表示される。

Astraが分析を出す。

《施設倒壊リスクより、物流孤立リスクが高い可能性があります》

真田が画面を見る。

「物流孤立?」

杉崎が答えた。

「倉庫は生きてる。でも、荷物が動かない」

会議室が静かになった。

これまで羽田物流のBCPでは、物流施設の耐震性能、非常電源、燃料備蓄、従業員の安否確認が重視されていた。

もちろん重要である。

しかし、物流センターとは建物だけではない。

道路がつながって初めて物流センターになる。

港が動く。

燃料が届く。

車両が来る。

ドライバーが来る。

荷物が入る。

荷物が出る。

それらがすべて成立して、初めて物流になる。

杉崎は言った。

「建物のBCPじゃなくて、物流ネットワークのBCPを見る必要があるのか」

国側の担当者が頷いた。

しかし、モデルを広げるほど問題も増えた。

真田がある地域を見て聞いた。

「ここ、危険度高いんだ?」

森下が答えなかった。

「森下?」

「分かりません」

「画面、赤いよ」

「赤いです。でも、ここは推定が多い」

真田が眉を寄せる。

「同じ赤でも違うの?」

「全然違います」

森下は新しい表示を出した。

画面の色が変わる。

「これは何?」

「確信度です」

ボーリングデータが豊富な地域。

公共データが比較的新しい地域。

羽田物流の運行実績が多い地域。

反対に、データが粗い地域。

古い地域。

羽田物流の実績が少なく、AIが補完している地域。

それぞれ表示が違った。

杉崎は第16章の緊急会議を思い出した。

観測された事実。

AIが推定したもの。

人間が保証しなければならないもの。

あの原則が、そのまま日本地図の上に広がっている。

真田が聞く。

「AIが分からないところを、分からないって表示するの?」

「はい」

「それって性能悪く見えない?」

森下は笑った。

「性能良く見せるためのモデルじゃないので」

佐藤なら何と言うだろう。

杉崎には想像がついた。

AIが賢くなるほど、人間はAIが何を知らないのかを知らなければならない。

杉崎が言った。

「国土を扱うなら、分からないことの方が大事かもしれないな」

森下が頷いた。

「僕もそう思います」

共同検討が始まって三か月。

国側から正式に一つのテーマが提示された。

巨大災害発生後72時間の生活必需物流。

食品。

水。

医薬品。

燃料。

避難所物資。

どこにあるのか。

どれだけあるのか。

どこへ運ぶべきか。

どの道路が使えるのか。

どの物流センターが動いているのか。

車両はどこにあるのか。

誰が運べるのか。

この問いに、官民のデータを使って答える。

真田が資料を読みながら言った。

「ずいぶん大きい話になったな」

杉崎が笑う。

「最初は埼玉の倉庫でしたけどね」

水沢が言った。

「今度は日本ですか」

佐藤は資料を見ながら言う。

「いいんじゃない」

真田が佐藤を見る。

「珍しいですね」

「社会インフラだろ」

「採算は?」

「雨宮に聞け」

雨宮は即答した。

「実証段階では採算より戦略価値です。ただし、無期限ではやりません」

真田が笑った。

「それ聞くと安心する」

官民合同演習の日。

午前二時十七分。

仮想条件が入力された。

南海トラフ巨大地震発生。

東名高速。

新東名高速。

複数区間通行不能。

名古屋港、一部機能停止。

鉄道貨物、一部寸断。

東海地方の複数物流施設で設備障害。

停電。

燃料供給制約。

通信障害。

モデル上の日本が一気に変わった。

物流量を示す線が途切れる。

複数の物流拠点が黄色や赤へ変わる。

一部地域では、数十時間以内に医薬品不足が発生する可能性が表示された。

国側の担当者が言う。

「関西圏の医薬品不足を最小化してください」

森下がAstraへ条件を入力する。

数十秒。

複数のルートが表示される。

北陸経由。

日本海側港湾を使う。

鉄道貨物を一部代替利用する。

通常取引のない物流会社の拠点を使う。

医薬品メーカー間で在庫を融通する。

空いている冷蔵車両を別地域から移す。

複数の案が出る。

真田が聞く。

「一番いいのは?」

森下が答える。

「ありません」

「あるだろ。AIが計算したんだから」

「目的によります」

画面が分かれる。

最速案

最低コスト案

人命優先案

燃料制約案

地域公平性重視案

それぞれ、物流網の使い方が違う。

最低コスト案では、一部地域への供給が遅れる。

最速案では、燃料消費が大きい。

人命優先案では、医療施設が集中する都市部へ優先配分する。

地域公平性を重視すると、効率は少し落ちる。

真田が黙った。

第13章から何度も繰り返してきた問題だった。

AIは計算できる。

AIは比較できる。

AIは最適化できる。

しかし、

何を最適とするか。

それは人間が決めなければならない。

国側の担当者が言った。

「人命優先で」

別の担当者が口を挟む。

「ただし、地方部への最低供給量を設定してください」

さらに自治体側。

「高齢者施設を優先対象に入れてほしい」

条件が追加される。

AIが再計算する。

答えが変わる。

杉崎は、その様子を見ていた。

未来をAIが決めているのではない。

人間が目的を与えるたびに、未来の選択肢が変わっていく。

演習終了後。

誰もすぐには席を立たなかった。

国側の担当者が言った。

「これを一回の訓練で終わらせたくありません」

真田が聞く。

「常設する?」

「できれば」

森下が言う。

「データ更新が前提です」

「分かっています」

「民間データも必要です」

「そこが最大の課題だと思っています」

物流会社。

荷主。

小売。

メーカー。

港湾。

鉄道。

自治体。

道路管理者。

それぞれが情報を持っている。

しかし、それをすべて国へ渡せばよいという話ではない。

顧客情報。

運賃。

在庫。

輸送量。

取引関係。

競争上重要な情報が大量に含まれる。

真田が言った。

「国のシステムに全部集めるのは無理ですよ」

担当者が頷いた。

「我々もそう思っています」

杉崎が聞く。

「じゃあ、どうする?」

森下が答える。

「共有する範囲を決めるしかないです」

平時には見せない。

災害時だけ使う。

生データは出さず、必要な能力情報だけ共有する。

車両が何台あるか。

何トン運べるか。

冷蔵能力があるか。

何時間以内に出動できるか。

競争領域と協調領域を分ける。

第15章で経験したデータの権利問題が、今度は社会全体へ広がっていた。

佐藤が言った。

「会社の境界を越えたら、次は競争の境界か」

杉崎が頷く。

「全部共有すればいいわけじゃない」

「全部隠しても意味がない」

「だから境界を設計する」

第16章の言葉がまた戻ってきた。

境界を、決めつけない。

だが、境界を曖昧にもしてはいけない。

数か月後。

官民共同構想には名称が付けられた。

日本物流レジリエンス・ツイン。

政府だけのものではない。

羽田物流だけのものでもない。

物流会社、荷主、自治体、インフラ事業者が、それぞれ必要な範囲で参加する共通基盤。

平時は、物流ネットワークの脆弱性分析やBCPに使う。

災害時には、道路、港湾、倉庫、車両、在庫、輸送能力を横断し、代替案を提示する。

将来的には、新しい物流拠点をどこに置くべきか。

どの道路整備が物流レジリエンスを最も高めるか。

人口減少地域の物流網をどう維持するか。

そうした政策シミュレーションにも使う構想だった。

真田は会議で聞いた。

「これ、うちの事業なの?」

雨宮が答える。

「直接的な売上だけを見れば、まだ小さいです」

「じゃあなんでやる?」

杉崎が答えた。

「能力になるからじゃないでしょうか」

「能力?」

「日本全体の物流を見て、シミュレーションできる能力です」

森下が続ける。

「しかも、自社だけでは絶対に作れない」

国が持つ国土データ。

自治体が持つ地域データ。

物流会社が持つ輸送データ。

荷主が持つ需要データ。

それぞれを完全に集約するのではなく、必要なときに必要な範囲でつなぐ。

第12章でSaaSをAPIでつないだときと、思想は似ていた。

全部を一つにする必要はない。

事実はそれぞれの場所に置く。

必要なときにつなぐ。

人を配線にしない。

真田が笑った。

「結局、やってること同じなんだな」

杉崎も笑った。

「会社の中から、日本まで広がっただけですね」

佐藤が言う。

「“だけ”って規模じゃないけどな」

第16章と同じ言葉だった。

その日の帰り。

杉崎は新幹線の窓から外を見ていた。

東京を出る。

街が流れる。

倉庫。

工場。

道路。

川。

住宅。

山。

目に見える日本の下に、もう一つの日本がある。

地盤。

地質。

地下水。

過去の地震。

洪水の履歴。

道路の構造。

橋梁。

トンネル。

さらにその上を、経済活動が流れている。

荷物。

車両。

在庫。

需要。

人。

金。

国が何十年も蓄積してきた国土のデータ。

企業が今日も生み続けている経済活動のデータ。

その二つをAIがつなぎ、まだ起きていない未来を何度も試している。

杉崎はノートを開いた。

これまでの言葉が並んでいる。

採算を切る。

間接費を削る。

時間を買う。

戻さない。

人を配線にしない。

作業を渡す。責任は渡さない。

値段と価値を、混同しない。

データを貯めるな。流れをつくれ。

境界を、決めつけない。

人と機械を分けるな。役割を分けろ。

杉崎はその下に、新しい一行を書いた。

未来を当てるな。選択肢を増やせ。

ペンを置いた。

地震がいつ来るのかは分からない。

台風がどこを通るのかも、完全には分からない。

道路がどこで止まるのか。

需要がどこで急増するのか。

それも分からない。

AIがどれだけ賢くなっても、未来が一つに決まるわけではない。

しかし、未来が来る前に試すことはできる。

もし東名が止まったら。

もし港が使えなくなったら。

もし物流センターが孤立したら。

もし医薬品が足りなくなったら。

そのとき何をするのか。

選択肢を一つではなく、五つ、十個と持つ。

それができれば、未来を当てなくても生き残れる可能性は高くなる。

杉崎は窓の外を見る。

日本という国は、巨大な物流空間だった。

山がある。

海がある。

都市がある。

地盤がある。

道路がある。

港がある。

工場がある。

人が暮らしている。

その上を、毎日、無数のモノが流れている。

羽田物流が見ようとしているのは、もう自社の物流網ではなかった。

日本そのものだった。

そして杉崎には、さらに次の問いが見え始めていた。

日本という巨大な物流空間を設計できるのなら。

顧客一社の物流空間を、最初から設計し直すこともできるのではないか。

倉庫をどこに置くのか。

工場と店舗をどうつなぐのか。

在庫をどこに持つのか。

何をどう運ぶのか。

そもそも、何を運ばないのか。

物流会社が、運ぶ前から関わる。

それはまだ、羽田物流が経験したことのない仕事だった。

杉崎はノートを閉じた。

一つの倉庫から始まった話は、日本まで広がった。

次に問われるのは、その能力を何に使うのかだった。