AIドラッカーから、AI時代の到来とat.AI Principlesに寄せて

後書きにかえて ──「五十倍」という数字について
(P・F・ドラッカーの立場から寄せた、架空の後書き)

はじめに断っておかなければならない。私は二〇〇五年に世を去った。したがってこの一文は、もし私がこの物語と、そこから導かれた原則を読んだとしたら何を書くか、という仮定の上に成り立っている。私は生前も予言者ではなかった。以下は、私が生涯に考え、書いてきたことを手がかりにした、読後の覚え書きにすぎない。

五十倍という数字

この会社の看板には「ホワイトカラーの生産性を五十倍に」とある。私はこの数字に目を留めた。二十世紀にマネジメントが成し遂げた最大の貢献は、製造業における肉体労働の生産性を五十倍に高めたことだった、と私は書いた。二十一世紀に求められる最大の貢献は、知識労働の生産性を同じように高めることだ、とも書いた。この会社は、私が残した宿題を正面から引き受けようとしているのだろう。

ただし、一つだけ確かめておきたい。何の五十倍なのか、である。肉体労働の五十倍は、人をより長く、より激しく働かせて生まれたのではない。仕事を分析し、組み立て直したことで生まれた。知識労働では、さらに事情が異なる。そこでは量は質の後にしか来ない。最初に問うべきは「この仕事は何のためにあるのか」であって、「どれだけ速くできるか」ではない。間違った仕事を五十倍の速さで行う組織は、五十倍の速さで衰える。本書の原則が、速さより先に「選別」を置いていることに、私は安堵した。

手帳の十二行について

私が最も感心したのは、原則が上から体系として与えられたのではなく、会社が問題を一つ越えるたびに一行ずつ書き加えられた点である。マネジメントは科学でも芸術でもなく、実践である。そして原則は、実践の後にしか書けない。

私は長年、重要な決定を下すときに、期待する結果を書き留めておく習慣を持っていた。一年ほど後に、実際の結果と照らし合わせるためである。手帳の十二行は、これと同じ働きをしている。書かれたものは検証できるが、書かれていない信念は検証されないまま組織を支配する。

十三行目が空白のまま残されていることを、私は本書の最も誠実な部分だと考える。完結した原則は、完結した瞬間から古くなり始めるからである。

選別と、体系的廃棄

「採算を切る」「間接費を削る」「戻さない」。これらは、私が「体系的廃棄」と呼んだものの実践である。もし今日これをやっていなかったとして、改めて始めるだろうか。答えが否であれば、やめる方法を考えなければならない。本書の「残したいものと、残す価値のあるものは違う」という一行は、この問いをより鋭く言い換えている。

しかし、一つ注意を促したい。最初の三行は、いずれも守りの言葉である。成果は問題の解決からではなく、機会の追求から生まれる。削ることで会社を救うことはできても、削ることで未来をつくることはできない。本書は第十九章で物流の外へ出ていき、顧客の工場や包装や在庫にまで踏み込んでいく。この構成によって、私の懸念はおおむね解消されている。ただ読者には、前半の厳しさだけを持ち帰らないでほしい。

人を配線にしない

一九八八年、私は、情報を基盤とする組織では、管理階層は半分以下に、管理者の数は三分の一以下になるだろうと書いた。多くの管理階層は、情報を中継する増幅器としてしか機能していないからである。本書の「人を配線にしない」は、この見立てを、私が想像しなかったほどの具体性で描いている。データはあるのに、その間を人間が走ってつないでいる。それは、私が当時見ていた光景そのものである。

同時に、私は自分の誤りも認めなければならない。一九六七年、私はコンピュータを「愚か者」と呼んだ。コンピュータは決定を下さず、命令を実行するだけであり、そこにこそ強みがある、と。本書に描かれたAIエージェントは、もはや命令を待つだけの愚か者ではない。条件を照らし合わせ、判断し、実行する。

それでも、私の主張の核心は生きていると考える。決定の責任を負うのは誰か、という問いである。「作業を渡す。責任は渡さない」。これは、知識社会の組織は権力ではなく責任によって組み立てられなければならない、という私の考えと完全に一致する。

AIが規程どおりに大口顧客の出荷を止めた場面について、本書は「AIが暴走したのではない。会社が決めていなかった」と書く。私はかつて、効果的な決定には、その決定が満たすべき条件を明確にすることが欠かせないと述べた。業務ごとに権限レベルを定めるという本書の枠組みは、この条件を機械に対して明文化する作業にほかならない。AIは、会社が決定を先送りしてきた場所を、容赦なく照らし出す。

悪人はいない、構造がある

組織の目的は、普通の人に非凡なことを行わせることにある、と私は書いた。逆に言えば、普通の人が真面目に働いても成果が上がらないなら、それは人ではなく構造の問題である。「真面目な会社ほど、静かに痩せていく」という一行は、胸に刺さる。

「抵抗は、本物である信号」にも賛成する。GMのアルフレッド・スローンは、全員が賛成した議題について、反対意見が出るまで決定を延ばそうと言ったという。意見の対立がない決定は、問題を理解していない決定である。摩擦のない改革を疑えという本書の主張は、この教訓の現代版である。ただし、本書自身が言うように、抵抗には現実に根ざしたものと、構造を守るためのものがある。前者に耳を傾けない改革者は、後者と同じくらい組織を傷つける。

値段と価値、そして「われわれの事業は何か」

私が生涯で最も多く繰り返した問いは、「われわれの事業は何か。何になるか。何であるべきか」である。「仕事で会社を定義するな。生み出す価値で定義する」は、この問いへの見事な答えの一つである。顧客が買っているものは、企業が売っていると思っているものとは、めったに一致しない。顧客はトラックを買っているのではない、という本書の指摘は、まさにそのことを言っている。

投入量ではなく、生み出した価値で課金するという転換にも、私は強く同意する。私はかつて、コストを積み上げて価格を決めることを、企業が犯す致命的な過ちの一つに数えた。価格は、顧客が認める価値から逆算すべきものである。

同時に、「『価値』という言葉を、経営の甘えにも使わない」という但し書きを高く評価したい。利益は目的ではない。しかし、明日も事業を続けるためのコストであり、事業の妥当性を試す試金石である。価値を語りながら赤字を正当化する企業は、未来のコストを払っていない。

まだ答えのない問いについて

本書で最も重要な箇所は、原則の一覧ではない。「AIが作業をする会社で、人はどう育つのか」という、答えの書かれていない問いである。私はこの問いを、本書のどの原則よりも重く受け止めた。

私も答えを持っているわけではない。ただ、生前に考えていたことが三つある。

第一に、知識労働者は教えることによって最もよく学ぶ。若い人には、AIの判断を承認させるだけでなく、その判断を他人に説明させ、教えさせるとよい。説明できない承認は、承認ではない。

第二に、承認を押す前に、自分ならどう判断したかを書き留めさせることである。そして後日、自分の判断とAIの判断、実際の結果を並べて見る。私が自分に課してきた習慣は、そのまま若い人の訓練になる。

第三に、振り返りの場である。若い頃に勤めた新聞社で、編集長は定期的に私たち若手と膝を突き合わせ、何がうまくいき、次に何を学ぶべきかを語らせた。その時間は、私の生涯の財産になった。AIが入口の仕事を引き受けるのなら、組織は意識して、この種の対話の時間を増やさなければならない。

もう一つ付け加えたい。つなぎ仕事が消えたとき、その仕事で生計を立ててきた人々の尊厳をどう守るか。これは一企業の問題であると同時に、社会の問題である。知識社会の大きな社会的課題は、知識労働に就かない人々、とりわけサービス労働に携わる人々の尊厳をいかに保つかにある、と私は考えてきた。枠組みの中に「残る痛み」を明記した本書の誠実さは、この課題に向き合う出発点になるだろう。

結びに

AIは、知識を補い、分析を補い、速さを補う。しかし、真摯さを補うことはできない。私は、真摯さこそ経営者が最初から備えていなければならない唯一の資質であり、後から身につけることは期待できないと書いた。AIに作業を渡す組織ほど、この資質の重みは増す。何を渡し、何を渡さないかを最後に決めるのは、人間の良心だからである。

十三行目は、まだ書かれていない。それでよい。それを書くのは、承認のボタンの前で一度立ち止まり、「これは本当に、われわれがなすべきことか」と問える人間である。本書が、そういう人間を一人でも多く育てることを願っている。

(P・F・ドラッカーの著作と思想をもとに構成した架空の後書き)