小説「SaaSの死」 第1章 封鎖

 その朝、テレビ局の速報テロップは、どこか現実味を欠いたまま日本列島を横切っていた。
 ホルムズ海峡、事実上の封鎖状態。複数のタンカーが航行停止。原油先物急騰。

 杉崎遼は、社長室の壁に掛かった大型モニターにその文字列が映るのを、コーヒーの紙カップを片手に眺めていた。六月に入ったばかりだというのに、朝の空気はもう湿り気を帯びている。羽田に近いこの街では、窓を閉め切っていても、遠くを滑走する航空機の鈍い振動がときおり床を伝ってきた。

 隣の執務スペースでは、若い秘書がニュースサイトを開いたまま、誰にともなく呟いた。
「また中東ですか……」
 誰も返事をしなかった。
 物流業界にいる人間にとって、遠い国の紛争は遠い話ではない。海の向こうで火が上がれば、数日遅れで燃料費が跳ね、数週間遅れで顧客の出荷計画が揺らぎ、数か月遅れで資金繰り表に穴が空く。杉崎はそれを知っていた。知ってはいたが、それでもなお、こうして実際に始まってしまうと、胸の奥で何か冷たい歯車が回り始めるのを感じずにはいられなかった。

 机の上には、前夜遅くまで見ていた資料が広がっている。荷主別採算一覧、拠点別損益、資金繰り予測、そして、三年前から始まっては消えていった複数の「DX推進プロジェクト」の報告書。どれも分厚く、立派で、そして役に立たなかった。
 羽田物流ホールディングス。年商五百億円、従業員五百人。世間的には中堅有力企業の部類に入る。だが、中を知る杉崎には、それが見栄えのよい数字の束以上のものには見えなくなっていた。

 仕事はある。荷物もある。現場は忙しい。
 それなのに、儲からない。

 その単純な現実を、会社は長い時間をかけて複雑に言い換え続けてきた。長年の取引先だから。地域の信用があるから。現場が頑張っているから。値上げは今のタイミングではないから。システムがまだ切り替わっていないから。採算の見方が拠点ごとに違うから。
 言い訳はいつも、もっともらしかった。

 杉崎は三年前、この会社に転じてきた。
 大手コンサルティングファームで、マネジャーとしていくつもの大規模案件に関わってきた。資料は作った。構想は描いた。役員会で拍手もされた。だが、終わってみれば変わらない会社が残り、請求書だけがきれいに発行されていく。若手を大量に抱え込み、案件規模を追い、顧客の現実より自分たちの売上を優先する組織の空気に、いつからか息苦しさを覚えるようになっていた。
 日本の現場産業を立て直したい。
 自分が本当にやりたいのは、提案書の中の改革ではなく、事業会社の中で泥をかぶる改革だ。
 そう思って移った先が、この会社だった。

 だが現実は皮肉だった。
 旧社長は慎重というより、遅かった。会議は長く、決定は先送りされ、何かを変えようとするたびに「社内調整」が必要になった。杉崎は社長室長兼プロジェクト責任者という肩書を持ちながら、実際には、動かない組織のなかで燻るしかなかった。社内では「またコンサル上がりが何か言っている」と見られていることも知っていた。現場から見れば、自分は外様でしかない。管理本部の古参幹部たちにとっては、なおさら邪魔な存在だった。

 風向きが変わったのは、半年前に真田恒一が社長に就いてからだった。
 真田は五十代半ば、痩せた身体に無駄のないスーツを着る男で、感情を大きく表に出さない。再建屋として名前が知られていたわけではないが、過去に一度、あるメーカー系企業で社長の座に就き、その後、主導権争いに敗れて退任したという経歴を持っていた。敗者の匂いを、彼は隠していなかった。だからこそ、杉崎はこの男を少しだけ信用していた。成功談しか語らない人間より、失敗を飲み込んだ人間のほうが、現実の硬さを知っている。

 その真田から、朝九時きっかりに内線が入った。
「杉崎くん、来てくれ」
 短い一言だった。

 社長室の奥にある小会議室には、すでに真田がいた。
 いつもと違ったのは、ネクタイが少しだけ緩んでいたことと、机の上に資料が一冊ではなく三冊重なっていたことだった。真田は銀行との面談から戻ったばかりだった。都心の本店まで出向き、メインバンクの法人営業本部長、榊原康介と会ってきたのである。

 真田は杉崎を見ると、椅子を勧めもせず、まず一枚の紙を差し出した。
「見てくれ」

 A4横の簡素な表だった。最新の資金繰り見込みと、利益予想の更新版。杉崎は立ったまま数字を追い、数秒後に息を止めた。
 直近期、営業利益はすでに赤字へ転落している。これまで社内で共有されていた予想より、悪い。燃料費の上昇を織り込んだ来期見込みでは、営業赤字はさらに膨らみ、現預金残高は危険水準まで落ち込む。長短借入金の残高は増え続け、二年後には自己資本の薄さが誰の目にも明らかになる。

「……ずいぶん思い切って悪い数字を置きましたね」
 ようやく杉崎が言うと、真田は薄く笑った。
「思い切ってじゃない。榊原に言われた数字だ。むしろ、こっちがようやく現実に追いついた」

 真田は椅子に腰を下ろし、組んだ手をほどいた。
「銀行は、すぐに黒字にしろとは言っていない」
 声は穏やかだった。
「だが、止血できない会社に時間は与えられない。そう言われた」

 杉崎は黙った。
 真田は続けた。

「十二か月で営業赤字を半分にしろ。二十四か月で、黒字化の道筋を見せろ。現預金は最低でも八億円は維持すること。それができなければ、追加支援は難しい。言い方は丁寧だったが、意味は同じだ」
「売却ですか」
「その言葉は使わなかった。ただ、使わなかっただけだ」

 窓の外を、着陸態勢に入った機体が低く横切っていった。
 杉崎の視線は手元の数字に戻った。五百億円の売上。現場は忙しい。ドライバーは足りず、倉庫は逼迫し、営業は荷主から無理難題を押しつけられている。それなのに、会社の利益は薄く、金は残らない。
 問題は、景気が悪くなったことではない。
 会社が長年、儲からない仕事を、儲からないやり方で、律儀に積み上げてきたことだ。
 その構造が、とうとう隠せなくなった。

「榊原さんは、どこまで見ていますか」
 杉崎が尋ねると、真田は短く答えた。
「かなり深い。うちの再建可能性も見ているし、再建不能になったときの出口も考えている」

 出口。
 事業売却、会社分割、スポンサー探索。いくつかの言葉が脳裏をよぎる。
 羽田物流ホールディングスほどの規模なら、欲しがる相手はいる。大手物流会社、商社系、再生ファンド。表には出てこなくても、水面下で値踏みを始めるには十分なサイズだ。

「社内はまだ、このレベルの危機だと思っていませんよ」
「分かっている」
 真田は言った。
「管理本部は時間があると思っている。営業は売上を追えば何とかなると思っている。現場は本社がまた何か始めると思っている。みんな、まだ昨日の延長線で考えている」

 杉崎はようやく椅子に腰を下ろした。
 自分がこの会社に来たのは、こういう瞬間のためだったはずだ。構想を現実に接続し、数字を人と組織に落とし込み、会社を変える。そう思ってきた。だが、今この会議室で目の前にあるのは、「変えたい」という理想ではない。「変えなければ死ぬ」という現実だった。

「やるべきことは、絞れています」
 杉崎は資料を閉じた。
「まず採算です。不採算荷主と案件を洗い出して、どこで失っているかを見る。次に営業方針を変える。売上を積み上げるだけの営業をやめる。そのうえでバックオフィスを削る。業務を標準化して、SaaSを整理して、AIを入れる」
「ホワイトカラーは半分で回るか」
 真田は、杉崎の言葉の先を読んだように尋ねた。

 杉崎は一瞬だけ口を閉じた。
「設計し直せば、回ります」
「その言い方だと、敵を増やす」
「事実です」
「事実でも、順番を間違えると会社は割れる」

 真田の声は厳しくはなかったが、そのぶんよく通った。
 杉崎は言い返しかけて、やめた。真田の言うことは正しい。正しいが、遅れてもいられない。銀行が与える猶予は短い。社内の合意形成を丁寧に待っていれば、数字のほうが先に尽きる。

 真田は杉崎の表情を見て、少しだけ目を細めた。
「お前一人でやらせるつもりはない」
「……どういう意味ですか」
「外から一人、入れる。正式な役職はまだ決めていないが、実務で使える人間だ。昔からの知り合いでな。経営も、財務も、現場も見られる」
 杉崎は眉をひそめた。
「僕の補佐ですか」
「そう思うならそう思えばいい」
 真田は机の上の万年筆を転がした。
「だが、お前の敵にもならない。少なくとも、俺はそう見ている」

 社長室の外で、誰かが足早に廊下を通り過ぎる音がした。
 杉崎は返事をしなかった。
 自分一人では足りないと見られているのかもしれない。実際、その通りなのだろう。現場にはまだ深く入り切れていない。管理本部の古参は、機会があればこちらの足を引く。営業は売上を守るために採算改革に抵抗するはずだ。しかもこれから先、大手コンサルもSIerも、黙っているとは思えない。再建の匂いが立てば、彼らは必ず寄ってくる。

 真田は最後に、一枚だけ別の紙を差し出した。
 そこには短く、銀行との確認事項が箇条書きで記されていた。

 十二か月以内に営業赤字を半減。
 二十四か月以内に営業黒字化の道筋を提示。
 現預金残高八億円以上を維持。
 不採算取引の見直し着手。
 固定費構造改革案の提出。

「これが、うちに与えられた時間だ」
 真田は言った。
「会社はまだ死んでいない。だが、放っておけば死ぬ」

 会議室を出たあと、杉崎はそのまま窓際まで歩いた。
 下の車道では、トラックが何台も首都高の入口へ向かっていた。空港の近くにあるこの街では、物流は景色の一部だった。目立たないが、止まればすぐに困る。その意味で、この会社にはまだ存在理由がある。だが、存在理由があることと、生き残れることは違う。

 杉崎はガラスに映る自分の顔を見た。四十一歳。目の下に薄い影がある。コンサル時代より少し痩せたかもしれない。
 提案するだけの時代は終わった。
 そう思った。

 この会社を殺しかけているのは、燃料高そのものではない。
 何年も先送りしてきた低利益構造と、変われない組織と、導入だけで終わった改革ごっこだ。
 そして、そこにようやく外圧が到達しただけだ。

 彼は手元のメモに、短く三行だけ書いた。

 採算を切る。
 間接費を削る。
 時間を買う。

 その文字を見つめながら、杉崎はもう一つ、まだ口には出していない現実を胸の内で反芻した。
 本気でやれば、この会社のホワイトカラー業務は半分で回る。
 それを見せた瞬間、会社は変わり始めるか、壊れ始めるかのどちらかになる。

 社長室の扉が開き、秘書が顔を出した。
「杉崎さん、十時半から管理本部との定例です」
「分かりました」

 杉崎は紙を折りたたみ、内ポケットに差し込んだ。
 廊下の向こうには、まだ何も知らない顔をした人たちが歩いている。だが、もう昨日と同じ会社ではない。少なくとも、彼にとってはそうだった。

 封鎖は、海の上で起きているだけではなかった。
 この会社の中で長く滞っていた時間もまた、別の意味で行き止まりに達していた。