小説「SaaSの死」第11章 定着

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 導入が終わった、という報告ほど当てにならないものはない。
 システムが動いたことと、会社が変わったことは、たいてい別の話だからだ。

 八月の第一週、羽田物流ホールディングス本社七階の会議室には、以前とは違う種類の疲労が漂っていた。
 導入直後の混乱はひとまず落ち着いている。請求・会計連携は対象範囲を絞りながらも動き始め、営業採算ダッシュボードも一部支店では使われ始めていた。社内ナレッジ検索と問い合わせ一次対応のAIも、総務・人事・経理の問い合わせ件数を目に見えて減らし始めている。
 数字だけ見れば、前に進んでいた。
 だが、それで終わりではなかった。
 むしろ、ここからが本当の勝負だった。

 朝九時の定着レビュー会議。
 真田恒一は珍しく冒頭で資料を閉じたまま言った。
「今日は成果報告会じゃない。戻り始めているものを洗い出す」

 その一言で、会議室の空気が少し引き締まった。
 参加者は、杉崎遼、佐藤龍一、雨宮恒一、水沢美咲、相沢由紀、森下航平、情報システム担当課長、それに各パイロット領域の責任者たち。
 長峰恒一も呼ばれていた。
 彼は呼ばれた以上、もう“外から見ているだけ”では済まない位置に来ていた。

 最初に共有されたのは、利用率の数字だった。
 請求・会計連携対象のうち、標準フローで最後まで通った案件は七二%。
 営業採算ダッシュボードの週次閲覧率は、支店長で六八%、営業担当で三九%。
 AIナレッジ検索の利用回数は初週の倍になっている一方で、一部の総務担当は依然として旧FAQファイルをメール添付で回している。
 問い合わせ一次対応AIの正答率は高いが、回答を見ながら結局人が全文書き直しているケースも多い。
 数字は前進と揺り戻しを同時に示していた。

「営業担当の閲覧率、思ったより低いですね」
 杉崎が言うと、水沢がオンライン越しにすぐ反応した。
「理由は簡単です。見るメリットがまだ習慣に勝っていません」
「どういう意味ですか」
「数字を見る前に顧客に電話してるからです」
 水沢はためらわず言った。
「悪いことじゃありません。でも今の営業は、顧客との関係と勘で動く癖が抜けていない。ダッシュボードは“見るべきもの”じゃなくて、“見てもいいもの”に留まってます」

 戸倉恒一がいれば反論したかもしれない。
 だが今日は呼ばれていない。
 現場側から同じ構造が言語化されたことで、会議は妙に静かだった。

 雨宮が次の資料を映す。
 問い合わせ一次対応AIのログ分析だ。
 総務・人事・経理への問い合わせのうち、AIが一次回答で完結させた比率は五七%。
 ただし、その後ろに小さく但し書きがあった。

 AI回答後に担当者が別メールで補足送信したケース:二九%

「これですね」
 雨宮が言う。
「AIは答えているのに、人が“念のため”で補足してしまう」
 森下が苦い顔をする。
「信用されてないんですかね」
「半分はそうです」
 相沢が答えた。
「でももう半分は、責任の所在が曖昧だからです」

 全員が彼女を見る。
 人事部長は資料を閉じたまま続けた。

「AIが一次回答しても、最終的にミスがあったら誰が責任を取るのか。担当者から見ると、結局自分の責任になるように感じる。だから自分で追記する。これは心理の問題でもあります」
 杉崎はそこで、導入時に自分が少し見落としていたものに気づいた。
 使えるかどうかだけではない。
 使ったときに、誰が責任を持つか。
 そこまで定義されなければ、定着しない。

 佐藤が机に肘をついた。
「だから運用設計だって言っただろ」
 森下は苦笑するしかない。
「すみません」
「謝るな」
 佐藤はすぐに言った。
「いま分かったなら、それでいい」

 会議はそこで、単なる進捗確認から“戻り”の診断へ変わっていった。
 どこで旧業務へ戻っているのか。
 なぜ戻っているのか。
 戻らないようにするには、何を変える必要があるのか。

 長峰がその流れの中で、初めて控えめに口を開いた。
「やはり、現場にはまだ早かった部分もあるのではないでしょうか」
 いつもの、穏やかな声だった。
「ダッシュボードにせよ、AIにせよ、使いこなせる前提を置きすぎている。一定期間は旧運用との並行も認めた方が――」

「それをやると戻ります」
 杉崎がかぶせるように言った。
 自分でも少し強いと思ったが、引かなかった。
「並行運用を長くすると、結局みんな慣れた方に戻る」
「ただ、杉崎さん」
 長峰は目を細める。
「無理に戻れなくすると、逆に現場の不満が増える」
「不満は増えるでしょう」
 今度は水沢が口を挟んだ。
「でも、支店の感覚で言うと、戻れるようにしたら戻ります。現場も同じです。選べると、人は楽な方に戻る」

 長峰は一瞬言葉を失った。
 現場側から同じことを言われるのは想定外だったのだろう。

 真田がそこで結論を切った。
「原則、旧運用には戻さない」
 短く、乾いた声だった。
「ただし、戻れないようにするなら、その代わりの支援を厚くする。教育、FAQ、責任定義、現場チャンピオン。この四つを今週中に立て直す」

 “現場チャンピオン”という言葉が出たところで、杉崎は会議メモに線を引いた。
 ここだった。
 定着に必要なのは、システムの完成度だけではない。
 新しいやり方を自分の言葉で現場に翻訳できる人間が必要なのだ。

 その日の午後、杉崎は水沢美咲のいる京浜第2支店へ向かった。
 現場チャンピオン候補を、自分の目で見たかったからだ。
 真夏の倉庫街は熱を蓄え、フォークリフトの音とトラックのエンジン音が途切れず響いていた。事務所の中も涼しいとは言い難い。
 水沢はタブレットを片手に、営業担当と支店事務の二人を前に立っていた。

「いい? 前の一覧表に戻るのは簡単なの。でも、それをやるとまた支店で数字を作るための人が要る」
 画面を指差す。
「このダッシュボードは見づらいところもある。でも、“どこで利益を失ってるか”は前より分かる。まずそこに慣れて」

 営業担当が不満そうに言う。
「でも結局、顧客に説明するには自分で資料作らないと」
「最初はそう」
 水沢は即答した。
「でもその資料を、次はテンプレートにして、次はAIで下書きにして、次はルールにする。最初から完成品なんてない」

 杉崎はそのやりとりを少し離れたところから見ていた。
 水沢はシステム担当でもコンサルでもない。
 だが、現場の言葉で新しいやり方を通していた。
 こういう人間がいなければ、どれだけ良い設計でも現場には根づかない。

 支店を出たあと、杉崎は車の中で相沢由紀からのメッセージを見た。

 管理部門の再配置候補、話せる状態になってきました。夕方、時間ください。

 夕方、本社に戻ると相沢は人事部の小会議室で待っていた。
 机の上にはリストが二枚。
 一枚は、工数が大きく減る業務。
 もう一枚は、新しく必要になる役割候補だった。

「整理対象ではありません」
 相沢は先にそう言った。
「少なくとも、今は」
 杉崎は黙ってリストを受け取る。
 新しい役割候補には、こう並んでいた。

  • AI運用・ナレッジ整備担当
  • 現場支援・例外設計担当
  • 採算分析補助
  • 営業提案支援
  • 標準業務定着推進
  • KPIレビュー運営

 杉崎はその一覧を見ながら、胸の奥に少しだけ熱いものを感じた。
 これだ。
 人を減らすのではなく、役割を変える。
 言葉では何度も言ってきた。だが、こうして実際の再配置先が見え始めると、それは初めて“構想”から“現実”になる。

「全員がうまく移れるとは言いません」
 相沢が静かに言った。
「でも、いまの時点で“余る”とだけ言われるよりはずっといい」
「ありがとうございます」
 杉崎は素直に言った。
 相沢は少しだけ首を振る。
「感謝される話じゃありません。これは、人事として最低限やるべきことです」
 少し間を置く。
「ただ、杉崎さん」
「はい」
「最終的にどうしても残る痛みがあるなら、それを“変革だから仕方ない”で済ませないでください」

 その言葉は、静かで、重かった。
 杉崎はすぐには答えられなかった。
 仕方ない、では済ませたくない。
 だが、何も犠牲なくは進まない。
 その二つのあいだに立つしかないのだと、改めて思う。

 翌週の定着レビューでは、数字が少し変わった。
 ダッシュボードの閲覧率は、支店長で八一%、営業担当で五四%まで上がった。
 AI一次回答後の人手補足率は二九%から一九%へ下がった。
 請求・会計連携の標準フロー通過率は七二%から八三%へ。
 月次締めは前月より二営業日短縮。
 問い合わせ件数も減っている。

「効いてきましたね」
 雨宮が小さく言う。
 だが、会議室にいた全員が、数字だけを見て喜んではいなかった。
 同時に見えていたからだ。
 管理部門の中で、やることが確実に薄くなっている領域がある。
 そして、それに適応して前へ出る人と、黙って後ろへ下がる人が分かれ始めている。

 週の後半、杉崎は廊下で、請求管理課のベテラン社員とすれ違った。
 以前なら軽く会釈を返してくれた相手だったが、その日は視線を逸らされた。
 何も言われない方がつらいこともある。
 改革は数字だけでは進まない。
 進むほど、人の感情の沈黙が増える。

 その夜、杉崎は社長室で一人、利用率の推移と再配置案を見比べていた。
 外はもう暗く、空港側の灯りだけがガラスに映っている。
 机の上には、初期に書いたメモがまだ残っていた。

 採算を切る。
 間接費を削る。
 時間を買う。

 そこに、今日新しく一行を書き足した。

 戻さない。

 導入はできた。
 だが、戻れば終わる。
 Excelに。
 例外に。
 人の手による接着に。
 “昔からこうしてきた”という安心に。
 それを戻さないことが、定着の本質だった。

 スマートフォンが震えた。
 森下からだった。

 営業採算ダッシュボード、戸倉さんが自分のチームの定例で使ったそうです。

 杉崎はしばらくその文面を見つめた。
 戸倉が。
 あの戸倉が、自分のチームの定例で。
 それは小さなことに見えて、実は大きかった。
 抵抗の象徴だった人間が、自分の論理の中に新しい道具を入れ始めている。
 定着とは、こういう小さな変化の積み重ねなのだろう。

 杉崎はスマートフォンを伏せ、窓の外を見た。
 会社は、まだ完全には変わっていない。
 だが、確実に前の型へ戻りにくくなっている。
 それで十分だった。
 いや、十分であるはずだった。

 そのとき、真田から内線が入った。
「杉崎くん、来てくれ」
 短い声だった。
 何かあったと分かる声だった。

 社長室へ向かう途中、杉崎は自分でも理由の分からない胸騒ぎを覚えた。
 定着が進むほど、会社は数字の上では強くなる。
 だがそのぶん、外で損をする連中もはっきりしてくる。
 SaaSベンダー、SIer、大手コンサル。
 社内の抵抗だけではない。
 外の圧力もまた、ここから形を変えるはずだった。

 ドアを開けると、真田の机の上には一枚の紙が置かれていた。
 株主構成の一覧だった。
 そこに赤いペンで丸がつけられている。

 城戸恒一率いるアクティビストファンドの持分比率が、先月より上がっていた。

 真田は杉崎を見て言った。
「会社が持ち直し始めると、今度は別の連中が近づいてくる」
 そして机の上の一覧を指で叩いた。
「ようやく、最後の章が見えてきたな」

 杉崎は何も言わなかった。
 だが分かっていた。
 定着とは、内部が固まることでは終わらない。
 内部が固まり始めたからこそ、外からその価値を奪いに来る力が強まるのだ。

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