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導入が終わった、という報告ほど当てにならないものはない。
システムが動いたことと、会社が変わったことは、たいてい別の話だからだ。
八月の第一週、羽田物流ホールディングス本社七階の会議室には、以前とは違う種類の疲労が漂っていた。
導入直後の混乱はひとまず落ち着いている。請求・会計連携は対象範囲を絞りながらも動き始め、営業採算ダッシュボードも一部支店では使われ始めていた。社内ナレッジ検索と問い合わせ一次対応のAIも、総務・人事・経理の問い合わせ件数を目に見えて減らし始めている。
数字だけ見れば、前に進んでいた。
だが、それで終わりではなかった。
むしろ、ここからが本当の勝負だった。
朝九時の定着レビュー会議。
真田恒一は珍しく冒頭で資料を閉じたまま言った。
「今日は成果報告会じゃない。戻り始めているものを洗い出す」
その一言で、会議室の空気が少し引き締まった。
参加者は、杉崎遼、佐藤龍一、雨宮恒一、水沢美咲、相沢由紀、森下航平、情報システム担当課長、それに各パイロット領域の責任者たち。
長峰恒一も呼ばれていた。
彼は呼ばれた以上、もう“外から見ているだけ”では済まない位置に来ていた。
最初に共有されたのは、利用率の数字だった。
請求・会計連携対象のうち、標準フローで最後まで通った案件は七二%。
営業採算ダッシュボードの週次閲覧率は、支店長で六八%、営業担当で三九%。
AIナレッジ検索の利用回数は初週の倍になっている一方で、一部の総務担当は依然として旧FAQファイルをメール添付で回している。
問い合わせ一次対応AIの正答率は高いが、回答を見ながら結局人が全文書き直しているケースも多い。
数字は前進と揺り戻しを同時に示していた。
「営業担当の閲覧率、思ったより低いですね」
杉崎が言うと、水沢がオンライン越しにすぐ反応した。
「理由は簡単です。見るメリットがまだ習慣に勝っていません」
「どういう意味ですか」
「数字を見る前に顧客に電話してるからです」
水沢はためらわず言った。
「悪いことじゃありません。でも今の営業は、顧客との関係と勘で動く癖が抜けていない。ダッシュボードは“見るべきもの”じゃなくて、“見てもいいもの”に留まってます」
戸倉恒一がいれば反論したかもしれない。
だが今日は呼ばれていない。
現場側から同じ構造が言語化されたことで、会議は妙に静かだった。
雨宮が次の資料を映す。
問い合わせ一次対応AIのログ分析だ。
総務・人事・経理への問い合わせのうち、AIが一次回答で完結させた比率は五七%。
ただし、その後ろに小さく但し書きがあった。
AI回答後に担当者が別メールで補足送信したケース:二九%
「これですね」
雨宮が言う。
「AIは答えているのに、人が“念のため”で補足してしまう」
森下が苦い顔をする。
「信用されてないんですかね」
「半分はそうです」
相沢が答えた。
「でももう半分は、責任の所在が曖昧だからです」
全員が彼女を見る。
人事部長は資料を閉じたまま続けた。
「AIが一次回答しても、最終的にミスがあったら誰が責任を取るのか。担当者から見ると、結局自分の責任になるように感じる。だから自分で追記する。これは心理の問題でもあります」
杉崎はそこで、導入時に自分が少し見落としていたものに気づいた。
使えるかどうかだけではない。
使ったときに、誰が責任を持つか。
そこまで定義されなければ、定着しない。
佐藤が机に肘をついた。
「だから運用設計だって言っただろ」
森下は苦笑するしかない。
「すみません」
「謝るな」
佐藤はすぐに言った。
「いま分かったなら、それでいい」
会議はそこで、単なる進捗確認から“戻り”の診断へ変わっていった。
どこで旧業務へ戻っているのか。
なぜ戻っているのか。
戻らないようにするには、何を変える必要があるのか。
長峰がその流れの中で、初めて控えめに口を開いた。
「やはり、現場にはまだ早かった部分もあるのではないでしょうか」
いつもの、穏やかな声だった。
「ダッシュボードにせよ、AIにせよ、使いこなせる前提を置きすぎている。一定期間は旧運用との並行も認めた方が――」
「それをやると戻ります」
杉崎がかぶせるように言った。
自分でも少し強いと思ったが、引かなかった。
「並行運用を長くすると、結局みんな慣れた方に戻る」
「ただ、杉崎さん」
長峰は目を細める。
「無理に戻れなくすると、逆に現場の不満が増える」
「不満は増えるでしょう」
今度は水沢が口を挟んだ。
「でも、支店の感覚で言うと、戻れるようにしたら戻ります。現場も同じです。選べると、人は楽な方に戻る」
長峰は一瞬言葉を失った。
現場側から同じことを言われるのは想定外だったのだろう。
真田がそこで結論を切った。
「原則、旧運用には戻さない」
短く、乾いた声だった。
「ただし、戻れないようにするなら、その代わりの支援を厚くする。教育、FAQ、責任定義、現場チャンピオン。この四つを今週中に立て直す」
“現場チャンピオン”という言葉が出たところで、杉崎は会議メモに線を引いた。
ここだった。
定着に必要なのは、システムの完成度だけではない。
新しいやり方を自分の言葉で現場に翻訳できる人間が必要なのだ。
その日の午後、杉崎は水沢美咲のいる京浜第2支店へ向かった。
現場チャンピオン候補を、自分の目で見たかったからだ。
真夏の倉庫街は熱を蓄え、フォークリフトの音とトラックのエンジン音が途切れず響いていた。事務所の中も涼しいとは言い難い。
水沢はタブレットを片手に、営業担当と支店事務の二人を前に立っていた。
「いい? 前の一覧表に戻るのは簡単なの。でも、それをやるとまた支店で数字を作るための人が要る」
画面を指差す。
「このダッシュボードは見づらいところもある。でも、“どこで利益を失ってるか”は前より分かる。まずそこに慣れて」
営業担当が不満そうに言う。
「でも結局、顧客に説明するには自分で資料作らないと」
「最初はそう」
水沢は即答した。
「でもその資料を、次はテンプレートにして、次はAIで下書きにして、次はルールにする。最初から完成品なんてない」
杉崎はそのやりとりを少し離れたところから見ていた。
水沢はシステム担当でもコンサルでもない。
だが、現場の言葉で新しいやり方を通していた。
こういう人間がいなければ、どれだけ良い設計でも現場には根づかない。
支店を出たあと、杉崎は車の中で相沢由紀からのメッセージを見た。
管理部門の再配置候補、話せる状態になってきました。夕方、時間ください。
夕方、本社に戻ると相沢は人事部の小会議室で待っていた。
机の上にはリストが二枚。
一枚は、工数が大きく減る業務。
もう一枚は、新しく必要になる役割候補だった。
「整理対象ではありません」
相沢は先にそう言った。
「少なくとも、今は」
杉崎は黙ってリストを受け取る。
新しい役割候補には、こう並んでいた。
- AI運用・ナレッジ整備担当
- 現場支援・例外設計担当
- 採算分析補助
- 営業提案支援
- 標準業務定着推進
- KPIレビュー運営
杉崎はその一覧を見ながら、胸の奥に少しだけ熱いものを感じた。
これだ。
人を減らすのではなく、役割を変える。
言葉では何度も言ってきた。だが、こうして実際の再配置先が見え始めると、それは初めて“構想”から“現実”になる。
「全員がうまく移れるとは言いません」
相沢が静かに言った。
「でも、いまの時点で“余る”とだけ言われるよりはずっといい」
「ありがとうございます」
杉崎は素直に言った。
相沢は少しだけ首を振る。
「感謝される話じゃありません。これは、人事として最低限やるべきことです」
少し間を置く。
「ただ、杉崎さん」
「はい」
「最終的にどうしても残る痛みがあるなら、それを“変革だから仕方ない”で済ませないでください」
その言葉は、静かで、重かった。
杉崎はすぐには答えられなかった。
仕方ない、では済ませたくない。
だが、何も犠牲なくは進まない。
その二つのあいだに立つしかないのだと、改めて思う。
翌週の定着レビューでは、数字が少し変わった。
ダッシュボードの閲覧率は、支店長で八一%、営業担当で五四%まで上がった。
AI一次回答後の人手補足率は二九%から一九%へ下がった。
請求・会計連携の標準フロー通過率は七二%から八三%へ。
月次締めは前月より二営業日短縮。
問い合わせ件数も減っている。
「効いてきましたね」
雨宮が小さく言う。
だが、会議室にいた全員が、数字だけを見て喜んではいなかった。
同時に見えていたからだ。
管理部門の中で、やることが確実に薄くなっている領域がある。
そして、それに適応して前へ出る人と、黙って後ろへ下がる人が分かれ始めている。
週の後半、杉崎は廊下で、請求管理課のベテラン社員とすれ違った。
以前なら軽く会釈を返してくれた相手だったが、その日は視線を逸らされた。
何も言われない方がつらいこともある。
改革は数字だけでは進まない。
進むほど、人の感情の沈黙が増える。
その夜、杉崎は社長室で一人、利用率の推移と再配置案を見比べていた。
外はもう暗く、空港側の灯りだけがガラスに映っている。
机の上には、初期に書いたメモがまだ残っていた。
採算を切る。
間接費を削る。
時間を買う。
そこに、今日新しく一行を書き足した。
戻さない。
導入はできた。
だが、戻れば終わる。
Excelに。
例外に。
人の手による接着に。
“昔からこうしてきた”という安心に。
それを戻さないことが、定着の本質だった。
スマートフォンが震えた。
森下からだった。
営業採算ダッシュボード、戸倉さんが自分のチームの定例で使ったそうです。
杉崎はしばらくその文面を見つめた。
戸倉が。
あの戸倉が、自分のチームの定例で。
それは小さなことに見えて、実は大きかった。
抵抗の象徴だった人間が、自分の論理の中に新しい道具を入れ始めている。
定着とは、こういう小さな変化の積み重ねなのだろう。
杉崎はスマートフォンを伏せ、窓の外を見た。
会社は、まだ完全には変わっていない。
だが、確実に前の型へ戻りにくくなっている。
それで十分だった。
いや、十分であるはずだった。
そのとき、真田から内線が入った。
「杉崎くん、来てくれ」
短い声だった。
何かあったと分かる声だった。
社長室へ向かう途中、杉崎は自分でも理由の分からない胸騒ぎを覚えた。
定着が進むほど、会社は数字の上では強くなる。
だがそのぶん、外で損をする連中もはっきりしてくる。
SaaSベンダー、SIer、大手コンサル。
社内の抵抗だけではない。
外の圧力もまた、ここから形を変えるはずだった。
ドアを開けると、真田の机の上には一枚の紙が置かれていた。
株主構成の一覧だった。
そこに赤いペンで丸がつけられている。
城戸恒一率いるアクティビストファンドの持分比率が、先月より上がっていた。
真田は杉崎を見て言った。
「会社が持ち直し始めると、今度は別の連中が近づいてくる」
そして机の上の一覧を指で叩いた。
「ようやく、最後の章が見えてきたな」
杉崎は何も言わなかった。
だが分かっていた。
定着とは、内部が固まることでは終わらない。
内部が固まり始めたからこそ、外からその価値を奪いに来る力が強まるのだ。
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