小説「SaaSの死 – AIエージェントカンパニー」第14章 値札

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五月十四日、午前七時四十二分。

杉崎のスマートフォンに、雨宮からメッセージが届いた。

《城戸ファンドが大量保有報告書を出しました。14.3%です》

杉崎は画面を見たまま、しばらく動かなかった。十一章の終わりに、その名前を初めて意識してから半年以上が経っていた。

城戸キャピタル。中堅上場企業を中心に投資し、資本効率、事業ポートフォリオ、株主還元、取締役会構成に踏み込んだ提言を行うことで知られているアクティビストファンドである。当初、保有比率は五%程度だった。それが七%になり、九%を超え、十一%を超えた。そして今回、十四・三%。もはや無視できる株主ではなかった。

杉崎はベッドから起き上がり、ノートPCを開いた。検索するまでもなかった。城戸キャピタルのサイトには、すでに新しい資料が掲載されていた。

タイトルは、「羽田物流ホールディングスの企業価値向上に関する提言」。五十七ページ。

杉崎は最初のページを開いた。そこには大きく、こう書かれていた。

羽田物流ホールディングスの企業価値は、現在の株式市場において著しく過小評価されている。

杉崎は眉をひそめた。攻撃的な文書を想像していた。経営陣の退陣要求。大量の自社株買い。資産売却。そういうものだと思っていた。

だが、読み進めるうちに、別の意味で表情が険しくなった。

分析が、かなり正確だった。

羽田物流の物流本業は、この二年間で営業利益率を大きく改善している。拠点別採算管理が定着し、不採算路線の整理も進んだ。間接部門コストは削減され、SaaSやAPI、生成AI、AIエージェントを使った業務再設計によって、本社機能の生産性は大きく向上している。

城戸ファンドは、その変化を詳細に追っていた。営業利益率、従業員一人当たり売上高、車両稼働率、固定費比率、本社人数、在庫回転、債権回収日数、設備投資、保有不動産、政策保有株式、遊休地、現預金。資料は一つずつ積み上げていった。

そして二十二ページ目。杉崎の指が止まった。

「AI Transformation Assets」

そこには、羽田物流が社内で構築してきたAIエージェント基盤について記載されていた。顧客対応、契約確認、運行管理、請求、債権管理、経営管理、調達、人事。複数のSaaSと業務システムを横断し、MCPやAPIを通じて処理するエージェント群。

城戸ファンドは、それを単なる社内システムとは見ていなかった。

「当該能力は物流事業の効率化手段にとどまらず、外部販売可能な独立事業となる可能性を有する」

杉崎は椅子にもたれた。

「そこまで見てるのか……」

資料の最後には、城戸ファンドの試算があった。物流事業。不動産。保有有価証券。AI Transformation事業。それぞれを分離して評価するSOTP分析。総額は、現在の時価総額の約一・九倍。そして最後に五つの提言が並んでいた。

非中核資産の売却。低採算事業からの撤退加速。大規模な自社株買い。AI Transformation事業の独立化。独立社外取締役二名の追加選任。

午前八時十七分。真田から電話がかかってきた。

「読んだ?」

「はい」

「どう思う?」

杉崎は少し間を置いた。

「厄介ですね」

「何が?」

「かなり正しいです」

電話の向こうで、真田が小さく笑った。

「俺もそう思った」

午前十時。臨時の経営会議が開かれた。真田、杉崎、雨宮、相沢、水沢、森下、佐藤。机の上には、城戸ファンドの提言資料が印刷されていた。誰も最初に話そうとしなかった。

真田が口を開いた。

「で、どうする?」

雨宮が最初に答えた。

「全部拒否するのは難しいと思います」

水沢が顔を上げた。

「本気ですか?」

「本気です」

雨宮は資料をめくった。

「政策保有株式の一部売却。遊休不動産の整理。低採算子会社。ここは、こちらでも問題認識はあります」

「でも自社株買いで何百億も使うんでしょう」

水沢が言った。

「その金があるなら、車両や設備に使うべきじゃないですか」

「だから全部受け入れるとは言っていません」

議論が始まった。森下はAI Transformation事業の独立化に反対した。

「これは事業じゃないです。今はまだ」

雨宮が聞く。

「何が違うの?」

「社内の業務そのものだからです。AIエージェントだけ切り取って売っても、動きません」

「外販できない?」

「将来的にはできると思います。でも、今切り離すと現場から離れます」

杉崎も頷いた。

「この仕組みが強いのは、物流現場のデータと毎日つながっているからです」

相沢が言った。

「人材育成の設計もまだ途中です。別会社にして、収益だけ追い始めたら、社内改革が止まりませんか」

議論が続いた。

佐藤だけは、ほとんど話さなかった。五十七ページの資料を最初から読み返していた。しばらくして、資料を閉じた。

「これ、八割くらい正しいな」

部屋が静かになった。

水沢が佐藤を見る。

「佐藤さんまで?」

「正しいものは正しいだろ」

佐藤は机に肘をついた。

「使ってない資産を持つ意味はない。資本コストを下回る事業を惰性で持つ意味もない。キャッシュを寝かせる意味もない」

雨宮が頷いた。

佐藤は続けた。

「俺たちが会社の中でやってきたことと同じだよ」

杉崎が聞いた。

「同じ?」

「使われてないSaaSを切った。意味のない会議をやめた。利益を生まない仕事をなくした」

佐藤は城戸ファンドの資料を指した。

「こいつらは、それを会社全体にやれって言ってるだけだ」

誰もすぐには反論できなかった。

杉崎は、少し嫌な感覚を覚えた。その通りだった。自分たちは、現場に対して何度も問い続けてきた。その仕事は必要なのか。そのシステムは必要なのか。その会議は必要なのか。その承認は必要なのか。

今度は株主から問われていた。その資産は必要なのか。その事業は必要なのか。その現金は必要なのか。その経営陣は必要なのか。

鏡を向けられているようだった。

城戸との面談は、その一週間後に設定された。

場所は羽田物流本社ではなく、都内のホテルの小会議室だった。城戸圭介は、杉崎が想像していた人物とは少し違った。四十代後半。高級そうなスーツではあったが、華美ではない。声も静かだった。

真田、雨宮、杉崎。城戸側は城戸本人と、二人の投資担当者。

城戸は冒頭から敵意を見せなかった。

「まず申し上げたいのですが」

資料を机に置いた。

「私たちは、御社のこの二年間の改革を非常に高く評価しています」

真田は表情を変えない。

「ありがとうございます」

「特に、物流会社がここまで短期間で本社機能を変え、AIを実装した事例は国内ではまだ多くありません」

杉崎は城戸を見た。本当に調べている。

城戸は続けた。

「だからこそです」

「だからこそ?」

「市場が御社を正しく評価できていない」

城戸は一枚の紙を出した。羽田物流の株価チャートである。

「株価は上がりました。しかし、それでも安い」

「何を基準に?」

真田が聞いた。

「事業価値です」

城戸は淡々と答えた。

「御社には、物流事業があります。不動産があります。現預金があります。そして、新しいAI基盤がある」

「AI基盤は売り物じゃありません」

杉崎が言った。

城戸は杉崎を見た。

「今は、ですね」

「少なくとも、今は」

「それでいいと思います」

意外な返答だった。

城戸は続けた。

「私たちは、明日売れと言っているわけではありません。ただ、その価値を経営者自身が認識してくださいと言っている」

真田が聞いた。

「認識してないように見える?」

「はい」

城戸は即答した。少し空気が硬くなった。

「社長。あなたの改革は素晴らしい」

一拍置いた。

「ただ、資本配分だけは改革前の会社のままです」

真田の目が少し細くなった。

「どういう意味です?」

「利益が戻った。キャッシュも増えた。でも、そのキャッシュを何に使うのかが見えない」

城戸は資料を開いた。

「低採算事業を残す。遊休資産を持つ。株式を持ち続ける。現金を積む。なぜですか」

真田は答えなかった。

城戸は続けた。

「現場には変化を求めた。従業員には生産性を求めた。システムには合理性を求めた。では、資本には?」

杉崎は、その質問が痛いことを理解した。真田も同じだった。

城戸は穏やかな声で言った。

「長期的な企業価値という言葉を使えば、何でも正当化できます。でも、長期だから資本効率を説明しなくていいわけではない」

真田が初めて椅子にもたれた。

「あなたは、うちをバラバラにしたいんですか」

「いいえ」

「AI部門を切り出せ。資産を売れ。事業を切れ。それをバラバラにするって言うんじゃないんですか」

城戸は少し考えた。

「違います」

「何が?」

「価値を見える形にしてください、と言っています」

「同じでしょう」

「同じではありません」

城戸は真田をまっすぐ見た。

「会社を守ることと、会社の形を守ることは違います」

しばらく誰も話さなかった。

面談の帰り。車の中で真田はほとんど話さなかった。

雨宮が先に口を開いた。

「どうしますか」

「どうって?」

「提言です」

真田は窓の外を見た。

「腹立つな」

杉崎が笑った。

「かなり」

「でも」

真田は続けた。

「間違ってないんだよな」

雨宮が頷いた。

「はい」

「そこが一番腹立つ」

三人とも少し笑った。真田はその後、何も言わなかった。

数日後。森下が杉崎の席に来た。

「ちょっと変なもの見つけました」

「何?」

「城戸ファンドの分析です」

森下は画面を見せた。

「提言資料の脚注を全部追ってみました」

公開情報、有価証券報告書、適時開示、不動産登記、採用情報、求人票、子会社の決算公告、自治体資料、物流拠点の航空写真、競合企業の価格情報。

「これ、人手だけで作ってないと思います」

杉崎が聞いた。

「AI?」

「ほぼ間違いなく」

森下は分析ログを見せた。

「更新速度がおかしいんです。こちらが開示した翌日に、分析資料が更新されている」

杉崎は画面を見た。

「エージェントか」

「たぶん」

森下は笑った。

「AIエージェントカンパニーを攻めてきたのも、AIエージェントカンパニーだったってことですね」

杉崎は笑えなかった。

企業側がAIで経営速度を上げる。投資家側もAIで企業分析速度を上げる。両者の情報処理能力が上がれば、経営の判断速度そのものが変わる。

かつてアクティビストが何か月もかけて調査していた企業分析が、数日でできるようになる。資本市場の圧力もまた、AIによって高速化している。

杉崎は、妙な未来を見た気がした。

六月に入り、取締役会は連日のように開かれた。城戸ファンドは正式に株主提案を提出した。

独立社外取締役二名の選任。大規模な自己株式取得。資産効率改善計画の策定。

会社側が反対すれば、株主総会で対決になる。

社内でも意見は割れた。

雨宮は部分的な受け入れを主張した。

「少なくとも資産売却とROIC基準はやるべきです」

水沢は慎重だった。

「また数字だけで現場を切る会社に戻るんですか」

「数字だけじゃない」

「でも、最後は数字になるでしょう」

「数字を見ない経営の方が危険です」

相沢は別の角度から言った。

「AIの外販は面白いと思います。でも、それが目的になったら人材育成や現場改善が置き去りになる」

森下も同意した。

「外販するなら、まだ早いです」

議論はまとまらなかった。

その夜、杉崎と佐藤は、本社の小会議室に残っていた。机には城戸ファンドの資料と、自社の中期計画が並んでいた。

杉崎が言った。

「城戸の弱点って、何なんでしょう」

佐藤はしばらく黙っていた。

「数字が正しいことかな」

「弱点ですか、それ」

「正しすぎるんだよ」

佐藤は資料を指した。

「今あるものを評価するには、すごく正しい」

「今あるもの?」

「物流事業。不動産。現金。AI基盤。全部、今の価値に置き換えてる」

「それは普通じゃないですか」

「普通だよ」

佐藤はペンを持った。

「でも三年後、この会社は何になってる?」

杉崎は黙った。

佐藤はホワイトボードに書いた。

物流。AIエージェント。自動運転。倉庫ロボット。需要予測。共同配送。物流データ。

「この会社がAIを持つ意味は、AIを売るためだけじゃない」

「物流そのものを変えるため」

「そう」

佐藤は続けた。

「今のAI基盤を切り出して、一番高く売る。それは正しいかもしれない。でも、その結果、物流現場からデータが離れたら? 毎日現場で改善されるAIじゃなくなったら? 自動運転やロボティクスにつながる能力を失ったら?」

杉崎はようやく言った。

「オプション価値」

「そう」

佐藤は頷いた。

「城戸の計算は間違ってない。ただ、この会社が三年後に何になるかまでは、Excelに入ってない」

杉崎はホワイトボードを見た。それは、ようやく見つけた反論だった。同時に、逃げ道にはしてはいけないとも思った。

未来を語れば、何でも残せる。三年後に価値が出る。五年後に価値が出る。十年後に価値が出る。そう言えば、経営者は何も捨てなくて済む。それでは城戸と同じくらい危険だった。

「未来を理由に、何でも残すのも違いますね」

杉崎が言った。

佐藤が笑った。

「やっと分かった?」

「はい」

「だから経営なんだよ」

翌朝。真田は経営陣を集めた。

ホワイトボードの中央に、大きく書いた。

Capital Allocation 2030

「城戸の提案を、全部拒否するのはやめる」

水沢が真田を見る。雨宮は黙っていた。

「正しいものは受け入れる」

真田は一つずつ説明した。政策保有株式の段階的売却。遊休不動産の処分。低採算事業の再評価。全事業へのROIC基準導入。一定規模の自社株買い。

そこまで書いて、真田は一度止まった。

「ただし」

新しい項目を書く。

AI・自動運転・ロボティクスへの再投資

「AI基盤は売らない」

森下が顔を上げる。

「子会社化もしない?」

「今はしない」

「外販は?」

「やる」

杉崎が聞いた。

「どうやって?」

「事業として見えるようにはする。でも、物流から切り離さない」

真田は続けた。

「収益、投資額、人員、KPIを分けて開示する」

雨宮が頷いた。

「内部カンパニー化ですね」

「それに近い」

真田はホワイトボードの前に立った。

「城戸の言ってることは正しい。価値が見えないなら、見えるようにする」

そしてもう一つ書いた。

三年間の投資枠

「ここは譲らない」

佐藤が聞いた。

「何に使う?」

「物流の次を作る」

「具体的には?」

「AI、自動運転、倉庫ロボット、需要予測、共同配送」

真田は言った。

「城戸にこう答える。あなたの問題提起は受け入れる。でも、この会社の未来まであなたには渡さない」

六月二十六日。定時株主総会。

会場は例年より明らかに人が多かった。報道陣も来ていた。城戸ファンドの株主提案に対する賛否。会社側が示したCapital Allocation 2030。AI Transformation事業の開示。資産売却。株主還元。そして二名の取締役候補。

質問は鋭かった。

「AI事業を独立させない理由は何ですか」

真田が答えた。

「AI単体の企業価値だけを見るなら、独立させた方が高く評価される可能性はあります」

会場が静かになる。

「では、なぜ?」

「物流事業と一緒にあることで、より大きな価値が生まれると判断しているからです」

「いつまで待てば、その価値が分かるんですか」

真田は少し間を置いた。

「三年です」

会場がざわついた。

「三年間で結果を出します」

「出なかったら?」

「見直します」

杉崎は壇上の端で、その言葉を聞いていた。

逃げなかった。

長期企業価値という曖昧な言葉にも逃げなかった。時間を区切った。未来に賭ける。しかし、無期限には賭けない。

それが真田の答えだった。

投票結果が出たのは、午後一時を回ってからだった。

城戸ファンド側の取締役候補。賛成、四十二・七%。

否決。

会社側が勝った。

しかし、圧勝ではなかった。株主の四割以上が、現経営陣への圧力を支持したのである。

総会終了後、杉崎が廊下を歩いていると、前から城戸が来た。少し離れたところに真田もいた。

城戸は立ち止まった。

真田も止まる。

「私の負けですかね」

城戸が笑った。

真田は少し考えた。

「いや」

城戸を見る。

「半分は、うちが負けた」

城戸は眉を上げた。

「どういう意味です?」

「資本配分、変えましたから」

城戸が笑った。

「それでいいんです」

「悔しいですけどね」

「市場は敵じゃありません」

城戸は言った。

「鏡ですから」

真田は何も答えなかった。

城戸は一礼し、そのまま歩いていった。

杉崎は、その後ろ姿を見ていた。城戸は羽田物流を奪いに来たのか。それとも、羽田物流をもう一段変えに来たのか。分からなかった。

ただ、少なくとも一つだけ確かなことがあった。

会社が変われば、問われるものも変わる。赤字の会社は、生き残れるかを問われる。立ち直った会社は、稼げるかを問われる。稼げる会社は、その利益を何に使うのかを問われる。そして、未来へ投資する会社は、その未来に本当に価値があるのかを問われる。

問いは、終わらない。

その夜。杉崎は自宅で、久しぶりにノートを開いた。

最後のページには、これまでの言葉が並んでいた。

採算を切る。
間接費を削る。
時間を買う。
戻さない。
人を配線にしない。
作業を渡す。責任は渡さない。

杉崎は、その下に新しい一行を書いた。

値段と価値を、混同しない。

ペンを置いた。

城戸の資料には、羽田物流の値段が書かれていた。不動産はいくら。物流事業はいくら。AI基盤はいくら。現金はいくら。足せば、会社の値段になる。

それは正しい。

だが、会社の価値は、それだけなのだろうか。

明日生まれるかもしれない事業。まだ名前のない技術。失敗するかもしれない投資。育ちつつある人材。現場で積み上がっているデータ。顧客との関係。そして、何を目指すのかという意思。

それらには、まだ値段がついていない。だからといって、価値がないわけではない。

逆に、未来という言葉さえ使えば、何にでも価値があることにできる。

その境界を決めるのが、経営なのである。

杉崎はノートを閉じた。窓の外では、羽田へ向かう飛行機の灯りが、ゆっくりと夜空を横切っていた。

会社には、いつか必ず値札がつく。

しかし、その値札に書かれている数字だけで、会社の未来まで決めさせてはいけない。

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