数字は、嘘をつく前にまず隠される。
杉崎遼は、そのことを大手コンサルにいた頃から知っていた。
人は露骨な改ざんよりも、見せ方の工夫を好む。都合の悪いものは粒度を粗くする。区分をまとめる。時系列をずらす。定義を変える。あるいは、そこまで意識的でなくとも、「まだ精査中です」「拠点ごとに見方が違います」「例外が多くて比較できません」と言っているうちに、問題そのものが霧のなかへ沈んでいく。
だから、本当に危ない会社では、最初に争点になるのは改革案ではない。数字そのものだ。
月曜の朝九時、羽田物流ホールディングス本社七階の大会議室には、営業本部、運行本部、管理本部、それに社長室から十数人が集められていた。壁際には冷えすぎた空調の風が当たり、楕円形の会議卓の上には紙コップのコーヒーと、前日に配られた会議資料が並んでいる。
議題は、再建計画の第一ステップ――荷主別・案件別の採算分析。
杉崎はプロジェクターの前に立ち、いつものように余計な前置きを省いた。
「今日は、売上ではなく利益の話をします」
言葉が落ちた瞬間、部屋の空気がわずかに固くなった。
対面の席に座る営業統括部長、戸倉恒一は、資料を閉じたまま腕を組んでいる。四十九歳。髪は短く整えられ、日焼けした顔に営業上がりらしい愛嬌がある。社内での評判は悪くない。顧客を回り、現場に頭を下げ、数字を作ってきた人間としての自負がそのまま姿勢に出ている。
その戸倉が、杉崎を見上げる目には最初から警戒があった。
杉崎は画面を切り替えた。
棒グラフと一覧表が映る。上位二十荷主の売上高、粗利額、粗利率、配送条件、付帯作業、再配達率、時間帯指定比率、請求条件。そこまでは普通だった。次のスライドで会議室が静まり返った。
各荷主の横に、赤と黒の二色で案件別営業利益が示されていた。
「ここまでの集計で分かったことがあります」
杉崎はレーザーポインタを動かした。
「上位二十荷主のうち、売上上位七社で全体売上の三八パーセントを占めています。一方で、営業利益ベースで見ると、その七社のうち三社が実質的に利益を食っています」
運行本部長の三崎恒一が、黙ったまま眉を上げた。
経理課長の雨宮恒一は、手元の資料に視線を落としたまま、小さく息を吐いた。
戸倉だけが表情を動かさなかった。
「特に問題なのが、東都リテール、京浜メディカルロジ、そして高波フーズです」
杉崎は三つの社名を順に指した。
「売上規模は大きいですが、時間帯指定、当日変更、付帯作業、倉庫内の例外運用、個別請求対応が重なっていて、現場負荷に対して単価が追いついていない。今のままだと、運べば運ぶほど利益が薄くなる構造です」
そこでようやく戸倉が口を開いた。
「その見方は、少し乱暴じゃないですか」
低くよく通る声だった。
戸倉は資料の一ページを指先で叩いた。
「東都リテールはうちの看板荷主です。倉庫も配送も、他の荷主を取るときの信用になっている。京浜メディカルロジは単価が低く見えても、安定稼働に寄与している。高波フーズは繁忙期に波はあるが、年間で見ると車両繰りの調整弁にもなる。個別案件の採算だけ見て切れるほど、物流は単純じゃないでしょう」
杉崎は頷いた。
「単純じゃないことは分かっています。だから、粗利ではなく営業利益まで見ています」
「その営業利益の計算が、本当に現場実態を反映しているなら、ですね」
「反映しています」
「誰がそう言い切るんですか」
軽く笑ったのは、営業企画部長だった。場を和ませようとしたのかもしれないが、失敗だった。
杉崎は笑い返さなかった。
「雨宮さん」
名を振られ、経理課長の雨宮が顔を上げる。
「原価配賦の考え方を簡単に説明してもらえますか」
雨宮は眼鏡を押し上げ、資料を開いた。
「配送単位の直接原価に加えて、倉庫作業の工数、配車再調整の回数、請求処理の個別対応負荷、本社管理部門の関連工数も配賦しています。完全ではありませんが、少なくとも従来の粗利だけを見るより実態に近いです」
戸倉がすぐに返す。
「つまり完全じゃない」
「完全じゃないから、見なくていいという話にはなりません」
雨宮の声は静かだったが、芯があった。
「今までは、もっと粗い数字で“だいたい儲かっているはず”と見てきました。その結果が今です」
会議室の一角で、誰かがペンを落とした。
杉崎はその沈黙の隙に次のスライドへ進んだ。
そこには、荷主別の実質採算ランクがAからDまで色分けされていた。
Dランクが赤く並んでいる。
そして、そのDランク荷主が合計で売上の一八パーセントを占めていた。
「これが、いま最初に手をつけるべき領域です」
杉崎は言った。
「不採算荷主比率一八パーセント。ここを十二か月で一〇パーセント以下に落とす。方法は三つしかない。値上げするか、条件を変えるか、やめるかです」
戸倉の椅子がきしんだ。
「簡単に言いますね」
「簡単じゃありません」
「だったら、そういう言い方はしない方がいい。こっちはその荷主と十年、二十年付き合ってきてるんです。向こうの繁忙も苦境も知っている。その積み重ねの上に今の売上がある。数字が悪いから切れ、なんて、机の上で言うのは簡単ですよ」
その一言には、会議室の何人かがうっすら頷いていた。
杉崎には、それが分かった。
戸倉の言っていることもまた、一面では正しい。物流は契約書の条件だけで動く仕事ではない。現場の信頼、営業の融通、長年の付き合い、突発対応の積み重ねで成立している部分がある。だが、その善意と慣習が、会社の利益を蝕んできたのも事実だった。
「関係を否定しているわけではありません」
杉崎は声のトーンを落とした。
「否定しているのは、採算を見ないまま関係だけを守るやり方です。今の会社には、それを続ける体力がありません」
戸倉はテーブルに身を乗り出した。
「じゃあ聞きますけどね、杉崎さん。東都リテールを切って、その空いた車両と倉庫スペースを、誰が、どんな単価で埋めるんですか。値上げすると言うなら、誰がやるんですか。顧客は簡単にうんとは言わない。うちの営業がどれだけ泥をかぶってきたと思ってるんです」
「だから営業方針を変えるんです」
「また方針ですか」
戸倉は鼻で笑った。
「方針を変えれば儲かるなら、誰も苦労しない。こっちは現場で数字を背負ってるんですよ」
その瞬間、今度は三崎が口を挟んだ。
「戸倉さん」
運行本部長の低い声が、部屋の温度を変えた。
「現場も数字を背負ってる。東都リテールの夜間差し込み、京浜メディカルロジの当日変更、高波フーズの細かい納品条件、あれでどれだけ配車が崩れてるか、営業ももう少し知った方がいい」
戸倉が三崎を見た。
「知ってますよ」
「知ってて、この単価ならなお悪い」
三崎は言った。
「現場は忙しい。だが忙しいだけで儲からない。そろそろ、どこで血を流してるか正面から見ないと、みんなで沈む」
会議室の空気がさらに重くなった。
杉崎は内心で驚いていた。三崎がここで自分の側に寄るとは思っていなかった。全面的な味方ではないだろう。だが少なくとも、現場が疲弊していることだけは共有されていた。
そこへ、今度は管理本部長の長峰恒一が、柔らかい声で入ってきた。
「議論の方向性は分かります」
いかにも中立的な調子だった。
「ただ、少し急ぎすぎではありませんか。採算分析は重要です。しかし、営業、運行、請求、管理のデータがまだ完全に揃っていない。今ここで一八パーセントを一〇パーセントに下げると目標を切ってしまうと、社内に必要以上の不安が広がります」
杉崎は心の中で舌打ちした。
長峰はいつもこうだった。反対はしない。だが、話が前に進む寸前で「慎重さ」という名のブレーキを踏む。
「不安が広がるのは、現実が不安だからです」
杉崎は言った。
「銀行との約束もあります。十二か月で赤字を半減させるには、採算の悪い取引に最初に手をつけるしかない」
長峰は表情を変えなかった。
「もちろん、私も危機感は共有しています。ただ、社内には社内の順番があります。まずは精度を上げること、それから段階的に議論を――」
「精度を上げると言い続けて、三年経ってます」
思ったよりも強い声が出た。
部屋が静まる。
長峰の目がわずかに細くなった。
「その言い方は、少し乱暴ではありませんか」
「乱暴かもしれません」
杉崎は引かなかった。
「でも、今必要なのは礼儀ではなく止血です」
会議は予定の一時間を超えた。
結論は出なかった。
だが、何が最初の戦場なのかだけは、誰の目にも明らかになった。
会議のあと、杉崎は七階の喫煙室だった場所を改装した小さな打合せスペースで、雨宮と向かい合っていた。壁際の観葉植物は明らかに元気がなく、使われなくなった灰皿の跡が棚の角にうっすら残っている。
「戸倉さん、思った以上に強硬ですね」
雨宮が紙コップを両手で持ちながら言った。
「強硬というより、あれは防衛本能でしょう」
杉崎は答えた。
「彼にとって、売上は自分の人生なんです」
雨宮は少し迷ってから言った。
「長峰さんの方が厄介かもしれません」
「分かってます」
「たぶん今日の会議のあと、人事と営業に話を流します。社長室は人を切る気だって」
杉崎は窓の外を見た。
倉庫街の向こうに首都高が見える。昼間の光のなかをコンテナ車が流れていた。
「過去のDX案件資料、全部見ました」
雨宮が続けた。
「配車最適化、請求自動化、倉庫管理高度化、データ基盤整備……名前は立派でした。でも結局、業務定義も標準化も曖昧なまま、ツールだけ増えてる。いま、管理本部の人たちが使ってるSaaS、たぶん誰も全体像を説明できません」
「どれくらい重複してると思いますか」
「契約だけでざっと二倍はあります。工数まで入れたらもっとです」
杉崎は笑わなかった。
笑える話ではなかった。
「売上はある、利益がない。システムはある、でも業務は変わってない」
自分に言い聞かせるように呟く。
「この会社、何もかもがそういう構造なんですね」
雨宮は答えず、少しだけ目を伏せた。
その沈黙が、同意より重かった。
夕方、営業フロアの一角では、すでに別の会話が始まっていた。
「社長室、ついに来たな」
「不採算荷主を切るって?」
「言うのは簡単だよな」
「結局、現場に行かない人間ほど数字で切るんだよ」
戸倉はその雑談を止めなかった。
止めないことで、自分の意思がどこにあるかを伝えていた。
一方、管理本部の奥では長峰が人事部長の相沢由紀に静かに話しかけていた。
「まだ決まった話ではありません。ただ、社長室はずいぶん急いでいます」
相沢は眉をひそめる。
「人員の議論まで行くんでしょうか」
「そこまでは分かりません」
長峰は穏やかに言った。
「ですが、採算だ、工数だと言い始めると、最後はそこへ行きます。社員の動揺だけは、早めに抑えておいた方がいいでしょう」
長峰の声はあくまで心配している人間のそれだった。
だが、その一言がどこへ波及するかを、彼はよく知っていた。
夜、社長室に戻った杉崎は、会議メモをまとめながら、ノートに短く書いた。
敵は数字ではない。
数字を見たくない人間だ。
その下に、もう一行加える。
だが、売上を作ってきた側にも正義はある。
ペン先が止まった。
戸倉を単純な敵として片づければ楽だ。だが、それではこの会社は救えない。売上文化を否定するだけでは足りない。売上を作ってきた人間が、利益を作る側へ移れるようにしなければ、会社は必ず割れる。
それでも、時間は待ってくれない。
銀行は十二か月で赤字半減を求めている。売上の一八パーセントを占める不採算取引に手をつけずに、その数字は作れない。
そして、本気で採算を見始めれば、次は必ずバックオフィスに話が及ぶ。請求、経理、総務、営業事務、配車事務。SaaSとAIを組み合わせれば、そこにある仕事のかなりの部分は半分で回る。
それを見せた瞬間、この会社の対立は次の段階に入る。
杉崎は椅子の背にもたれ、目を閉じた。
第1章で自分に課した三つの言葉が頭の中で反復する。
採算を切る。
間接費を削る。
時間を買う。
最初の一つに手をつけたばかりで、もうこれほど血の匂いがする。
そう思うと、胸の奥がわずかに熱くなった。恐怖と高揚が、区別のつかないまま混じっていた。
机の上でスマートフォンが震えた。
画面には、真田恒一からの短いメッセージが表示されていた。
戸倉とぶつかったな。想定内だ。明日、外の人間を一人入れる。夜、時間を空けておけ。
杉崎はその文面をしばらく見つめた。
外の人間。
真田が言っていた、あの「実務で使える人間」だろう。
画面を伏せたとき、窓の外はもう暗くなっていた。滑走路の灯が、遠くに一直線の光をつくっている。会社の中ではまだ、昼の会議の余熱がくすぶっているはずだった。営業は売上を守ろうとし、管理本部は不安を言葉に変え始め、現場はまた本社が騒ぎ始めたと思っている。
売上はある。
だが利益がない。
そして、その事実を正面から見た瞬間に、会社の中では人間関係の採算まで崩れ始める。
杉崎はネクタイを少し緩め、ノートを閉じた。
明日、また別の戦いが始まる。
数字の次は、人間だ。
