改革が嫌われる会社には、たいてい理由がある。
単に保守的だからではない。変わりたくないからでもない。
もっと厄介なのは、変わろうとして、変われなかった記憶が、組織の奥に沈殿している場合だった。
火曜の朝、杉崎遼は社長室の会議机いっぱいに広げられたファイルの山を前に、しばらく手を止めていた。
紙のファイル、共有フォルダから出力した進捗報告、ベンダー提案書、要件定義書、打合せ議事録、検収一覧、稟議書、費用対効果試算。タイトルだけ見れば、どれも会社の未来を切り拓くための文書に見える。実際、それぞれの案件が立ち上がった当初は、社内でもそう信じられていたのだろう。
配車最適化プロジェクト
請求業務高度化構想
データ統合基盤整備フェーズ1
営業DX推進プログラム
バックオフィス生産性向上施策
立派な名前ばかりだった。
そして、そのほとんどが今の会社をほとんど変えていなかった。
杉崎は一冊目の資料を開いた。
三年前に始まった配車最適化プロジェクト。導入ベンダーは藤堂が率いる御用達SIerだった。初年度投資は三億二千万円。画面イメージ、帳票一覧、効果想定。資料の表紙には、太字でこう書かれている。
属人的な配車判断からの脱却
車両稼働率の向上
業務標準化による持続可能な運行体制の実現
杉崎は次のページをめくった。
要件一覧、例外一覧、現場要望一覧。
読み進めるにつれ、眉間に皺が寄る。
標準化するはずだった業務は、現場ヒアリングを重ねるごとに例外が増え、最終的には“標準画面”の横に“特殊対応用の運用手順書”が何十ページもぶら下がっている。時間帯指定、急な差し込み、顧客ごとの独自ルール、特定ドライバー指名、拠点間持ち回り。どの事情も、それだけ切り取れば理解できる。理解できるからこそ切れなかったのだろう。
その結果、標準化するはずのシステムは、現場の複雑さをそのまま写し取っただけの重いソフトウェアになった。
杉崎は小さく息を吐いた。
「再現したのか……」
隣でノートPCを開いていた雨宮恒一が顔を上げた。
「何かありましたか」
「標準化じゃなくて、現場の複雑さを丁寧にシステム化してる」
杉崎は資料を指で叩いた。
「これじゃ、効率化じゃない。複雑さの保存です」
雨宮は苦笑した。
「たぶん、誰も嫌われたくなかったんでしょう」
「誰に?」
「現場にも、営業にも、管理本部にもです。例外を残せば、その場では揉めませんから」
その言葉は、資料の束全体に通じていた。
請求業務高度化構想も同じだった。本来は請求締めの短縮と個別請求対応の削減を狙ったものだったはずが、最終的には顧客ごとの例外請求パターンを“吸収するための追加画面”がいくつも増えた。
データ統合基盤整備フェーズ1に至っては、さらに象徴的だった。各部門SaaSのデータ統合を目指していたはずなのに、統合対象の定義が曖昧なまま、「まずは営業系だけ」「まずは請求系だけ」と小さく分割され、その都度Excelの中間ファイルと手作業の確認工程が増えている。
データ基盤はできた。
だが、データがつながったわけではない。
人がその間をつなぎ続けていた。
杉崎は資料から目を離し、窓の外を見た。
高曇りの空の下、倉庫群の向こうに首都高が見える。車列は詰まり、しかし流れていた。
この会社のDXも同じだ、と杉崎は思った。完全には止まっていない。だが、流れているように見えるだけで、どこにも抜けていない。
「全部、途中までは正しいんですよね」
雨宮が静かに言った。
「最初の問題意識も、導入目的も、効果試算も」
「でも変わってない」
「はい」
雨宮は頷く。
「変わる前に、会社のほうが自分を守ったんです」
杉崎はその言葉を反芻した。
会社が自分を守る。
まさにその通りだった。
システムが悪かったのではない。
ベンダーだけが悪かったのでもない。
この会社は、変わると言いながら、変わらないように導入していたのだ。
十一時からの部門横断会議には、管理本部、営業本部、運行本部、それに情報システム担当が集められた。議題は「過去施策のレビューと再建計画との接続」。言い換えれば、なぜここまでのDX投資が効かなかったのかを、全員の前で話す場だった。
杉崎は会議室に入った瞬間から、空気の重さを感じた。
正面には管理本部長の長峰恒一が座っている。五十八歳。姿勢の崩れない男だった。髪はきれいに撫でつけられ、声を荒らげることはまずない。部下から見れば穏やかで面倒見がいい管理職に映るだろう。だが杉崎は、この男の最も厄介なところを知っていた。
決して露骨に反対しないことだ。
会議が始まると、杉崎は過去案件のレビュー結果を簡潔に説明した。
配車最適化は例外温存で効果が薄まったこと。請求高度化は個別対応を削れず、結果的に画面と工数だけが増えたこと。データ基盤は部分最適で終わり、部門横断の見える化には届かなかったこと。
話し終えたところで、長峰が静かに手を挙げた。
「整理の方向性は理解できます」
いつもの柔らかい声だった。
「ただ、少し気になるのは、過去施策を“失敗”と断定してしまうと、現場や管理部門の努力を踏みにじることになりかねない点です」
営業本部の何人かが頷いた。
杉崎は予想していた。
「努力の話はしていません」
「ですが、聞く側はそう受け取ることもあります」
長峰は続けた。
「当時は当時で、必要な判断があった。例外対応も、顧客維持や現場事情からやむを得なかった。いまの視点で“複雑さが残ったからダメだった”と切るのは、少し乱暴ではないでしょうか」
言葉尻だけを拾えば、もっともだった。
過去の努力を否定するな。現場事情を無視するな。
正論に見える。
だがその正論はいつも、話を前へ進めるのではなく、止めるために使われる。
「努力を否定しているんじゃありません」
杉崎は答えた。
「努力した結果、変わらなかったという事実を見ているだけです」
「その“変わらなかった”の定義も、もう少し丁寧に見た方がいいのでは」
長峰は資料に目を落としながら言った。
「たとえば請求高度化は、担当者の心理的負荷軽減には一定の成果がありました」
「心理的負荷が減っても、工数と例外が減っていないなら、会社としては止血になりません」
「数字だけで人の仕事は測れないでしょう」
「数字で見なかったから、ここまで来たんです」
会議室がしんと静まり返る。
長峰はようやく顔を上げ、杉崎を見た。笑ってはいなかったが、怒ってもいない。その無表情がむしろ面倒だった。
「杉崎さん」
長峰はゆっくり言った。
「誰も、変わる必要がないとは言っていません。ただ、この会社には、この会社の積み上げがある。現場には現場の事情がある。管理部門にも管理部門の責任がある。その複雑さを一度すべて“無駄”として整理しようとすると、かえって現場も人も壊れますよ」
その瞬間、杉崎の中で何かが引っかかった。
“複雑さ”。
この男はいつも、複雑さを守る側に立つ。もちろん現実は複雑だ。だが、それを丁寧に守り続けた結果が今の低利益構造なのではないか。
情報システム担当の課長が、おそるおそる口を挟んだ。
「ただ、実際、システムごとのデータ定義もバラバラでして……。請求と営業で顧客コードも完全一致していないケースがかなりあります」
「だから余計、慎重にやるべきです」
長峰がすかさず拾う。
「いま強引に全体を触ると、現場はもっと混乱します」
杉崎は、机の下で手を握り込んだ。
この会議で結論は出ない。長峰は結論を出させないために話している。
そのことが分かるからこそ腹が立つ。
会議が終わった後、杉崎は廊下の角を曲がったところで戸倉に呼び止められた。
「少しいいですか」
営業フロアに近い小さな打合せブースに入ると、戸倉は扉を閉めた。
さっきまでの会議の硬さとは違い、むしろ妙に率直な顔をしている。
「長峰さんとは別に、こっちも言いたいことがあります」
「聞きます」
「あなた、過去のDX失敗を見て、“だから今度は本質的に変える”って考えてるでしょう」
「そうです」
「その発想自体は分かる。でも、現場も営業も、もう疲れてるんですよ」
戸倉は低く言った。
「“また今度こそ”って言われるたびに、入力だけ増えて、会議だけ増えて、結局元に戻る。それを何度も見てきた。だから今、みんなが警戒してるのは改革そのものじゃない。改革の顔をした仕事の増加です」
杉崎は黙った。
それは、耳の痛い指摘だった。
「あなたは変えようとしてる。そこは分かる」
戸倉は続ける。
「でも、もし今回もまた、SaaSが増えて、画面が増えて、報告が増えて、人がSaaSの間を走り回るだけなら、今度こそ会社は終わりますよ」
その言葉に、杉崎は一瞬、何も返せなかった。
戸倉の言うこともまた正しいからだ。
そしてその正しさは、営業の立場からではなく、この会社の疲労の総量から出てきたものだった。
「だからこそ、今回は逆にします」
杉崎はようやく言った。
「増やすんじゃなくて、減らす。人が間を走らなくていいようにする」
「本当にできますか」
「やります」
戸倉は少しだけ笑った。
「その言い方、嫌いじゃないです。でも、できなかったら一番傷つくのは現場です」
戸倉が出ていったあと、杉崎はしばらくその場に立ったままだった。
営業統括部長と管理本部長。二人は違うことを言っているようで、根っこでは同じことを突いていたのかもしれない。
この会社は、もう“改革という仕事”を増やす余裕がない。
必要なのは、本当に仕事そのものを減らす改革だ。
夕方、社長室に戻ると真田が待っていた。
ネクタイを外し、ソファに浅く座っている。珍しく、机の上には二本目のコーヒーが置かれていた。
「顔に出てるな」
真田が言った。
「長峰さんですか」
「それもあります」
杉崎は正直に答えた。
「でも、もっと嫌なのは、自分が昔そっち側にいたことです」
真田は何も言わず、続きを促した。
杉崎は窓の方を見たまま話した。
「昔、似たようなプロジェクトを何本もやりました。業務改革って言いながら、結局は現行業務をきれいに整理して、システム化して、例外も全部吸収して、“現場に寄り添った設計です”って言って。結果として、何も減らないまま請求書だけ大きくなる」
そこで言葉を切る。
「今回の資料を見てたら、自分もその一部だったって思い知らされました」
真田は少し考え、それから短く言った。
「なら、その借りは返せばいい」
杉崎は苦笑した。
「簡単に言いますね」
「簡単じゃない。だが分かりやすい」
真田はコーヒーを一口飲んだ。
「それに、お前一人で返す必要もない」
その意味はすぐに分かった。
真田は内ポケットから一枚の名刺を取り出し、テーブルの上に置いた。
佐藤龍一
合同会社R-Field
代表社員
杉崎はその名前を見て、一瞬だけ呼吸が止まった。
記憶が勝手に数年前へ戻る。都内の会議室、深夜のファミレス、現場で怒鳴る工場長、役員会で一歩も引かなかった男。
見た目は地味なのに、話し始めると場の空気をひっくり返す人間だった。
コンサル時代、協業先として何度か一緒に案件を回したことがある。経営の数字も、現場の汗も、システムの癖も、ぜんぶ同じ言葉で語れる珍しい男だった。
そして、やたらと面倒な局面で強かった。
「まさか」
「明日の夜、来る」
真田は言った。
「こっちの修羅場は、一度見てもらった方がいい」
杉崎は名刺を裏返し、また表に戻した。
懐かしさより先に、不思議な緊張が来た。
佐藤龍一が入れば、確かに戦力になるだろう。
だが同時に、自分の甘さも、青さも、全部見抜かれる気がした。
窓の外では、日が傾き始めていた。倉庫街の屋根が赤く染まり、空港へ向かう車の列が鈍く光る。
会社の中では、過去の失敗がまだ終わっていない。むしろ、誰もそれを失敗だと認めたがっていない。
そのうえで、新しい改革を始めなければならない。
杉崎は名刺を胸ポケットにしまった。
改革が嫌われる理由は分かった。
この会社は、変わりたくないのではない。
変わると言われて、変わらなかったことが何度もあるのだ。
だから次に必要なのは、正しさを語ることではない。
今度こそ、本当に何かを減らし、何かを消し、何かを変えることだった。
そして、そのためにはたぶん、自分一人では足りない。
