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水曜の夜、羽田の空にはまだ湿った熱が残っていた。
日が落ちてもアスファルトの表面は昼間の温度を抱え込んだままで、本社ビルの正面玄関を出ると、杉崎遼はネクタイを少しだけ緩めた。時刻は十九時半を回っている。七階の会議室にはまだ灯りがついていたが、さすがに今日のところは資料を閉じるしかないと判断したところだった。
スマートフォンが震えた。
真田恒一からの短いメッセージだった。
地下の小会議室に来い。今着いた。
それだけだった。
主語も説明もない。だが、昨日渡された名刺のことを思えば、用件は一つしかなかった。
地下の小会議室は、もともと倉庫レイアウトの打合せに使われていた部屋で、地上階の会議室に比べると壁も低く、照明も少しだけ暗い。外部の人間を目立たせずに入れるにはちょうどいい場所だった。
扉を開ける前に、杉崎は一瞬だけ立ち止まった。
懐かしい、という感情が先に来ると思っていた。
だが実際には違った。
胸の奥にあったのは、むしろ身構えに近い感覚だった。
あの男に会えば、たぶん今の自分の未熟さも、焦りも、全部見抜かれる。そういう確信があった。
ドアを開けると、最初に見えたのは真田の横顔だった。
その向かいに、少しだけ椅子を後ろに引いて座っている男がいた。
佐藤龍一は、十年前と大きくは変わっていなかった。
見た目は拍子抜けするほど普通だった。グレーのジャケットに濃紺のシャツ、細くも太くもない体格。髪は少し後退し始めていたが、不思議と老けた印象はない。顔立ちも特別に鋭いわけではない。ただ、目だけが妙に生きていた。
会議室や現場で何度も修羅場をくぐった人間だけが持つ、熱と冷静さが同居した目だった。
「久しぶりだな、杉崎」
佐藤が先に言った。
その声には、懐かしさと遠慮のなさが同時に入っていた。
「お久しぶりです」
杉崎は扉を閉めながら答えた。
「ずいぶん真面目な顔になったじゃないか」
「会社員ですから」
「その返し、昔よりつまらなくなったな」
佐藤は笑った。
真田も口元だけで笑う。
その瞬間、杉崎の肩から少しだけ力が抜けた。
この男は相変わらずだった。初対面では地味に見える。だが口を開くと、一瞬で場の温度を変える。理屈が先に立つようでいて、感情の熱量でも人を動かす。会議室ではロジカルに、人前では豪快に、現場では乱暴なくらい率直に話す。
そしてたいてい、その全部が必要な場面にだけ現れる。
真田が紙のファイルを一冊、佐藤の前に置いた。
「うちの現状は一通り送ってある」
「見たよ」
佐藤は頷いた。
「見事に詰まってるな」
「感想が雑すぎませんか」
杉崎が言うと、佐藤はすぐに返した。
「雑じゃない。こういう会社はな、どこか一つが悪いんじゃない。全部が少しずつ詰まってるんだよ。営業、現場、請求、管理、本社、システム、データ。どこも完全には壊れてない。でも流れが悪い。だから会社全体が息切れする」
杉崎は椅子に座った。
真田が短く説明する。
「龍一には、外から見てもらう。肩書はまだ曖昧でいい。実質的には、再建プロジェクトの外部参謀だ」
外部参謀。
言葉にすると、どこか芝居がかって聞こえる。だがこの男には、その曖昧さのほうが似合っていた。役職で仕事をする人間ではない。会議室でも、現場の片隅でも、数字のレビューでも、必要なところに勝手に現れて、必要なことだけを言う。そういうタイプだった。
「参謀ってのは買いかぶりだよ」
佐藤は肩をすくめた。
「俺はただ、現場と数字と業務のあいだに立つのが好きなだけだ」
「それを参謀って言うんですよ」
杉崎が言うと、佐藤は笑って机に指を二回打った。
「お前、昔より少しだけ口が悪くなったな。いい傾向だ」
しばらくして、真田が会話を本題に戻した。
「銀行には、十二か月で赤字半減、二十四か月で黒字化の道筋を示すと伝えてある」
「厳しいな」
佐藤の顔から笑みが消える。
「でも無理ではない」
「条件がある」
真田が言った。
「うちは、もう“大きなことを言って小さくしか変わらない”のを繰り返せない」
「分かってる」
佐藤は即答した。
「だからまず、今の業務を全部きれいに写すみたいなことはやめた方がいい」
杉崎が目を上げた。
その一言が、まだ誰にも言語化しきれていなかった違和感の中心を突いた。
「現行業務を精密に棚卸しして、現場例外を全部拾って、部門ごとの事情を全部残して、それをシステム化していく」
佐藤は指を折るように言った。
「それ、過去に何回やった?」
真田は黙っている。
杉崎が代わりに答えた。
「何度もです」
「で、何が起きた?」
「複雑さが保存された」
杉崎が言うと、佐藤は口の端を上げた。
「そう。汚い地図を高解像度で描いただけだ」
その言い方に、真田が小さく頷いた。
杉崎も、思わず苦笑した。
まったく同じことを、今日、資料を読みながら自分も考えていた。
「今回やるべきは再現じゃない」
佐藤は背もたれにもたれ、しかし視線は鋭いままだった。
「乗り換えだよ。会社の仕事の型を、新しいものに切り替える。SaaSを入れるとか、AIを使うとか、そういう話はその後だ。先に決めるのは、今の複雑さをどこまで捨てるかだ」
「捨てる、ですか」
杉崎が聞き返す。
「そうだ」
佐藤はためらわなかった。
「残す価値のある例外と、昔からあるだけの例外を分ける。人がSaaSの間をコピペしてるだけの仕事は消す。報告のための報告は消す。ベテランの頭の中だけにある業務知識はAIでも検索できる形に出す。で、SaaSは部品にして、APIでつないで、BIで見えるようにして、AIは横で全部を跨がせる。そうしないと、また“導入したけど忙しい会社”ができるだけだ」
部屋が静かになった。
杉崎は、その沈黙のなかで自分の頭の中にある断片が一本につながるのを感じた。
これまでこの会社では、SaaSは部門ごとに導入されてきた。営業は営業の、経理は経理の、現場は現場の、管理は管理の。だが、それらをつなぐ仕事は常に人が担っていた。入力し、転記し、照合し、問い合わせ、説明し、会議で補い、Excelで整える。
その“つなぎ”が、実はホワイトカラーの仕事の大きな部分を占めていた。
そして、その構造が利益を食っていた。
「席数を増やす話じゃないんですね」
杉崎が言うと、佐藤は笑った。
「ようやくそこまで来たか」
「SaaSを増やして人を減らすんじゃなくて、SaaSを部品に落として、人が間を埋めなくていい会社にする」
「そういうこと」
佐藤は指を鳴らした。
「アプリケーションを増やしても会社は賢くならない。流れを作らないとダメだ」
真田が腕を組んだまま、二人のやりとりを見ていた。
「その方向で行くとして、社内はかなり荒れるぞ」
「荒れるでしょうね」
佐藤はあっさり言った。
「でも、今までは荒れないように全部拾って、結果として会社が死にかけたんでしょう」
「言い方が乱暴です」
杉崎が言うと、佐藤はすぐに返す。
「乱暴でいい場面もある。お前は逆に、理屈を整えすぎて人の感情を後回しにする。そこが危ない」
その言葉には、軽さがなかった。
杉崎は何も言えなかった。
図星だったからだ。
十年ほど前、初めて佐藤と一緒に案件をやったときのことを思い出す。
地方の製造業だった。杉崎はまだ大手コンサルのシニアコンサルタントで、佐藤は協業先の実務家として入っていた。工場の在庫と営業計画と原価管理がバラバラで、役員会では立派な中期計画ばかりが空回りしていた案件だった。
杉崎はそのとき、数字も論点もきれいに整理した。
佐藤は工場長と飲みに行き、翌朝には現場の怒りと諦めをそのまま役員会でぶつけた。
あのとき自分は、佐藤のやり方を少し乱暴だと思った。
だが最終的に現場が動いたのは、佐藤が理屈より先に“人の詰まり”を見ていたからだった。
「昔から変わらないですね」
杉崎は小さく言った。
「お前もな」
佐藤が返す。
「優秀だけど、正しさの通し方が少し青い」
真田が、そこで初めて少しだけ笑った。
「お前たち、昔からそんな調子なのか」
「だいたいこんな感じでした」
杉崎が答える。
「もう少し若いころは、遼のほうが刺々しかったよ」
佐藤が言う。
「龍一さんにだけは言われたくないです」
「俺は若いころ、もっとひどかった」
佐藤は平然と言った。
「社内政治なんかクソくらえで、正しいことを言えば通ると思ってた。だいたい通らなかったけどな」
その言い方があまりにも自然で、杉崎は一瞬だけ笑ってしまった。
真田は笑わなかった。むしろ少し遠い目をした。
「通らなかったどころか、俺は助けきれなかった」
真田が低く言った。
部屋の空気が変わる。
佐藤も、今度はすぐには言葉を返さなかった。
杉崎は黙って二人を見た。
この二人には、自分の知らない時間がある。二十年。パートナーとして組み、企業の成長も、危機も見てきた時間だ。
真田は続けた。
「前の会社のとき、龍一には一度相談した。遅すぎたけどな」
「遅かったのはお互い様だ」
佐藤がようやく言う。
「俺も、もっと前に踏み込めた」
「いや」
真田は首を振った。
「踏み込ませなかったのは、俺のほうだ」
短い沈黙が落ちた。
杉崎はそこで初めて理解した。
この男たちは、ただの旧知ではない。過去に一度、間に合わなかった経験を共有しているのだ。
だから今回、真田は佐藤を呼んだ。
今度こそ、遅れないために。
「今回は間に合わせましょう」
杉崎が言った。
二人が同時に自分を見る。
少し気恥ずかしくなったが、言葉は引っ込めなかった。
「そのために呼んだんでしょう」
真田は一度だけ頷いた。
佐藤は、珍しくまっすぐな目で杉崎を見た。
「その意気込みはいい」
佐藤が言う。
「ただし、焦って会社を壊すな。お前は今、そのぎりぎりのところにいる」
「分かっています」
「本当に分かってるやつは、そう簡単に“分かってる”って言わない」
「じゃあ何て言えばいいんですか」
「“怖い”って言えばいい」
佐藤は言った。
「改革ってのはな、正しい側が楽なわけじゃない。人の役割を動かすんだから、怖くて当たり前だ」
杉崎は答えなかった。
自分が怖いと思っていることを、この男には隠せない。
怖いのは失敗ではない。
失敗なら、理屈で整理できる。
本当に怖いのは、成功しかけた改革が、人間関係と役割と誇りを壊していくことだった。
会議が終わったのは二十一時を回ってからだった。
小会議室を出たあと、三人はそのままビルの外に出た。夜風は昼間より少しだけ乾いていたが、それでも空気の底には夏の熱が残っている。
道路の向こうで、大型トラックがゆっくりと右折していく。倉庫街の光はまだ白く、羽田へ降りる機体の灯も低く見えた。
「腹減ってるか」
佐藤が突然言った。
「え?」
「腹だよ。飯だ。こういう話のあとにまっすぐ帰ると、ろくなこと考えない」
真田は苦笑した。
「昔からそれだな」
「昔から正しいんだよ」
佐藤はそう言って、歩道の先にある焼き鳥屋を顎で示した。
「ドラゴンズは今年も大概だが、焼き鳥は裏切らない」
杉崎は思わず吹き出した。
「いきなり野球ですか」
「中日は人生だ」
佐藤は真顔で言った。
「あとハードロックもな。覚えておけ。改革はメロディじゃなくてリフだ。繰り返して身体に入れるんだよ」
「何の話ですか、それ」
「半分は冗談だ」
「半分は?」
「本気に決まってるだろ」
真田が小さく笑う。
その笑いを見て、杉崎はこの会社に来て初めて、少しだけ前に進めるかもしれないという感覚を持った。
まだ何も始まっていない。むしろ、本当に厄介なのはここからだ。営業、管理、現場、銀行、外部プレイヤー。全員が自分の正義を持ってぶつかってくる。
それでも、少なくとも今夜だけは、一人で抱えている感じが少し薄まっていた。
焼き鳥屋へ向かって歩き出したとき、佐藤が横を向いたまま言った。
「遼」
「はい」
「お前、今の会社を変えるつもりでいるだろ」
「そのつもりです」
「なら、最初に捨てるのは現場じゃない。現場を苦しめてる“つなぎ仕事”だ」
佐藤は足を止めずに言った。
「SaaSを増やすな。人がアプリの間を走る会社を終わらせろ。そこからだ」
杉崎は返事をしなかった。
その言葉が、あまりにもまっすぐ、自分がこれからやるべきことの核心を突いていたからだ。
会社を変えるとは、何かを足すことではないのかもしれない。
むしろ、長いあいだ人が抱え込んできた“つなぎ”を消すことなのかもしれない。
その先に初めて、SaaSも、APIも、生成AIも、道具として意味を持つ。
夜の羽田に近い街を、三人は並んで歩いた。
真田は無口で、佐藤はよく喋り、杉崎は半歩だけ後ろからそれを聞いていた。
まるで、昔からこうだったかのような並びだった。
けれど本当は、これから始まるのだ。
会社の神経系を作り直すような、厄介で、面倒で、たぶん面白い戦いが。
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