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金曜の朝、営業本部のフロアはいつもより静かだった。
静かというより、会話の音量が一段落ちていた。誰もが普通に仕事をしているふりをして、その実、今週の会議で何が起きたかを互いに気にしている。
羽田物流ホールディングスのような会社では、正式な通達より先に、空気が動く。どこかの会議室で交わされた一言は、昼までに部長席へ、夕方には支店長へ、翌朝には配車担当の耳にまで届く。言葉はその過程で少しずつ変形し、時には毒を持つ。
杉崎遼が営業本部フロアを歩くと、視線がいくつか上がり、すぐに外れた。
「採算を見るらしい」
「赤字荷主を切る気だ」
「社長室が営業に口を出し始めた」
そんな噂が、もう十分に広がっているのだろう。
会議室に入ると、戸倉恒一はすでに来ていた。
営業統括部長の前には、紙で出力された荷主別採算一覧と、各支店から上がってきた営業メモが広がっている。資料に付箋がいくつも貼られているのを見ると、この男もこの男なりに真剣なのだと分かる。そこが余計に面倒だった。
頭ごなしに否定するだけの相手なら、まだ楽だ。
戸倉は違う。売上を作ってきたという自負も、顧客との関係を守るという責任感も、本物だった。だからこそ、自分が立ってきた世界が否定されることに耐えられない。
杉崎が席に着くと、戸倉は挨拶もそこそこに資料を押し出してきた。
「各支店のヒアリング結果です」
「ありがとうございます」
「先に言っておきますけど、机上の採算だけで切れる話じゃないものも多いですよ」
「分かっています」
「本当に分かってるならいいんですけどね」
その場には佐藤龍一もいた。
いつものように、いかにも“正式メンバーではないが一番大事な会議にはいる人間”という顔で、会議卓の端に座っている。ノートPCは開いているが、画面を覗くより先に人の顔を見ていた。
真田恒一は少し遅れて入ってきた。ネクタイはきれいに締められていたが、表情には疲れがにじんでいる。銀行とのやりとりが水面下でさらに続いているのだろう。
「始めよう」
真田が短く言った。
「今日は、不採算荷主の扱いを決める」
空気が一段、硬くなった。
杉崎はプロジェクターを立ち上げた。画面には、前回より一歩踏み込んだ一覧が映る。荷主別売上高、粗利率、営業利益、運行負荷、例外対応件数、請求の特殊性、再配達率、そして営業本部・運行本部・管理本部がそれぞれ主観的に付けた「戦略的重要度」。
その表の右端に、杉崎が新たに加えた列がある。
継続条件
A:維持
B:条件見直し
C:値上げ必須
D:撤退検討
戸倉がそれを見て、露骨に眉をひそめた。
「ずいぶん大胆ですね」
「大胆でないと間に合いません」
杉崎は答えた。
「このままの取引条件で継続する荷主を決めるのは、もうやめたいんです」
最初に取り上げたのは東都リテールだった。
売上規模は大きい。会社の看板荷主でもある。だが時間帯指定、配送条件変更、突発対応、店舗ごとの個別帳票、月末の問い合わせ集中が重なり、営業利益は極めて薄い。
杉崎は言った。
「このままならCです。値上げ必須」
戸倉は間髪を入れず返した。
「無理です」
「無理と決めるのはまだ早い」
「いや、無理です」
戸倉は資料に指を置いた。
「東都はここ二年、荷量自体が伸びていない。その上、競合も何社か入っている。いま運賃を上げると、案件単位で切られる可能性が高い」
「現状維持なら利益を食い続けます」
「でも切られたら売上が飛ぶ」
「売上を守って利益を失うのと、利益を守って売上が一時的に落ちるのと、どちらがマシかです」
戸倉は机に両肘をついた。
「そういう二択にするから、営業が信用しなくなるんですよ」
「じゃあ三択目を出してください」
杉崎は真正面から言った。
「今の条件のまま利益を改善する方法があるなら、具体的に」
一瞬、会議室が静まる。
戸倉はすぐには答えなかった。
代わりに、運行本部長の三崎恒一が資料を見ながら口を開いた。
「東都について言えば、夜間便の差し込みと店舗別の細かい納品ルールを減らせるなら、話は変わります」
杉崎がすぐに拾う。
「つまり条件見直しですね」
「そういうことだ」
三崎は杉崎ではなく戸倉を見た。
「値上げだけじゃない。条件も変えてもらわないと現場が持たない」
戸倉は三崎を見返した。
「そんなの向こうが簡単に飲みますか」
「飲まないなら、こっちも全部飲むな」
三崎の声は低かった。
「いまの現場は、その“全部飲む”で死にかけてる」
戸倉は舌打ちこそしなかったが、顔には苛立ちが出た。
杉崎はそのやりとりを見ながら、ここにこの会社の縮図があると思った。営業は売上と関係を守る。現場は負荷の限界を知っている。どちらも正しい。どちらも、それだけでは会社を救えない。
次に取り上げたのは京浜メディカルロジだった。
医療系物流で、安定出荷がある。だが温度管理や帳票管理、緊急便、問い合わせ対応などの負荷が高く、粗利に比べて営業利益が低い。
戸倉は「この荷主は信用の象徴だ」と言った。
杉崎は「信用を赤字で買う会社は長く持たない」と返した。
水掛け論に見えかけたところで、佐藤が初めて口を開いた。
「ちょっと整理しようか」
豪快だが、どこか落ち着いた声だった。
「いま戸倉さんが守ってるのは売上だけじゃない。看板と関係と将来の可能性だ。そこは分かる」
戸倉は黙ったまま、続きを待った。
「でもな、それを全部“戦略”って呼ぶと会社は死ぬ」
佐藤は淡々と言った。
「戦略ってのは、残すものを決めることでもあるけど、捨てるものを決めることでもある。看板荷主だから残す、関係が長いから残す、将来伸びるかもしれないから残す。それ全部やったら、永遠に何も切れない」
「切るための理屈ならいくらでも作れますよ」
戸倉が言う。
「そうだな」
佐藤は頷く。
「だから逆に聞くけど、残すための条件は決めてるか?」
戸倉が眉を寄せる。
「条件?」
「そう。感情じゃなく条件だ。どこまで値上げできたら残すのか。どこまで現場負荷を下げられたら残すのか。どの指標が改善したら“戦略荷主”と呼んでいいのか。そこを決めてない“重要顧客”は、だいたい会社の弱みになる」
真田がそこで初めて強く頷いた。
「それだな」
彼は資料の空白部分にペンを置いた。
「今までうちは、“切るか切らないか”でしか議論してこなかった。そうじゃない。“残す条件”を決める」
杉崎は一瞬、頭の中が整理されるのを感じた。
そうだ。採算改革は、ただ切る話ではない。
条件を定義し、維持・見直し・撤退の基準を可視化することだ。
そこに初めて、営業の経験も、現場の現実も、経営の数字も一つの表に乗る。
会議はその方向へ進み始めた。
東都リテールは、値上げと納品条件見直しをセットにした交渉対象。
京浜メディカルロジは、緊急便比率と帳票要件の圧縮が条件。
高波フーズは繁忙期対応の別料金化が前提。
完全な撤退候補はまだ決めない。だが、「残すには条件がある」という前提が初めて共有される。
それでも、戸倉の顔は晴れなかった。
会議の終盤、彼は資料を閉じて言った。
「理屈は分かります。でも、こういう話が現場に降りた瞬間に何が起きるか、ちゃんと考えてください」
「何が起きると思いますか」
杉崎が聞く。
「営業は、“今までの仕事を否定された”と感じます。支店は、“また本社が数字で現場を切る”と思う。荷主には、“余裕がなくなったから値上げか”と足元を見られる」
戸倉は杉崎を真っ直ぐ見た。
「この話は正しいかもしれない。でも、正しい話がそのまま通るほど、現場は素直じゃない」
その一言が、杉崎の胸に残った。
正しい話がそのまま通るほど、現場は素直じゃない。
たぶんその通りだ。
そして、それは現場が悪いからではない。これまで正しそうな話が何度も会社を通り過ぎ、何も変えなかった記憶があるからだ。
会議が終わったあと、杉崎は屋上に近い非常階段に佐藤を呼び出した。
夜風は思ったより強く、下の方から物流センターのフォークリフトのバックブザーが微かに聞こえてくる。
「ありがとうございました」
杉崎が言うと、佐藤は壁にもたれて缶コーヒーを開けた。
「別に礼を言われるほどじゃない」
「いや、さっきの“残す条件”の話は大きかったです」
「条件を言語化しない“重要顧客”は、だいたい宗教だからな」
佐藤は平然と言った。
「宗教?」
「そう。みんなありがたがってるけど、数字で説明できない」
杉崎は思わず笑った。
だが次の瞬間、真顔に戻った。
「ひとつ気になってるんです」
「何だ」
「今日の議論も、結局は一覧表と個別判断でした。でも本当は、もっと早く、もっと日常的に見えるべきなんじゃないかと思ってます。営業が、値上げ交渉の前に荷主別採算を見られて、支店長が、例外対応の負荷をリアルタイムに見られて、経営が、どの顧客で利益を失っているかを週次で見られるような……」
佐藤は缶コーヒーを持ったまま頷いた。
「当たり前だ」
「当たり前、ですか」
「当たり前だよ」
佐藤は階段の手すり越しに夜景を見た。
「今のお前らは、采配を考える前にまずボールの位置を探してる。そりゃ遅い」
「だからダッシュボードと分析基盤がいる」
「そう」
佐藤は振り向いた。
「でも、それを“分析ツールを入れましょう”で終わらせるな。SaaSを足す話にするな。今いる営業や管理の人間が、どの情報を、どのタイミングで、どう見れば“人がつなぎ役をやらなくて済むか”で考えろ」
杉崎は黙って聞いていた。
佐藤の言葉が、後ろの方でひとつの絵に変わり始める。
営業、現場、請求、会計。部門ごとに分かれたSaaS。そこを人がつなぐ。報告資料のために集計する。問い合わせのたびに確認する。
それを、SaaSを部品にして、APIでつないで、ダッシュボードで見えるようにして、AIで問合せや説明や分析の中間作業を減らしていく。
まだ輪郭は粗い。だが、確かに何かが見え始めていた。
「この会社、営業も管理も現場も、たぶん“つなぎ仕事”が多すぎるんですね」
杉崎が呟くと、佐藤はすぐに返した。
「やっと見えてきたか」
「その仕事を減らせば、採算だけじゃなくて、トップラインの質も変わる」
「そういうことだ」
佐藤は缶を飲み干した。
「だから今やってる“選別”は、顧客を切る話じゃない。何を人がやるべきで、何をシステムとデータで処理すべきかを切り分ける第一歩だ」
非常階段のドアが開き、真田が顔を出した。
「二人とも、まだいたのか」
「少し風に当たってました」
杉崎が答えると、真田は短く頷いた。
「銀行から追加で資料依頼が来た」
「何ですか」
「支店別採算の推移と、不採算荷主の改善余地」
真田は手元のメモを見た。
「ずいぶん具体的になってきた」
杉崎はそれを聞きながら、逆に少しだけ安堵した。
銀行もまた、抽象論ではなく、どこで利益を失い、どこを変えるのかを見始めている。
ならば、やるべきことは明確だ。
真田が続けた。
「来週、戸倉に東都リテールとの交渉に入ってもらう。条件見直しも含めてだ」
「本人が飲みますかね」
杉崎が言うと、真田は表情を変えなかった。
「飲ませる。だが、お前も同行しろ」
「僕が?」
「数字を背負ってるのはお前だからだ」
真田は杉崎を見た。
「営業に売上を取らせるだけの会社から、営業に利益を取りに行かせる会社へ変えるなら、最初の交渉から逃げるな」
杉崎は答えなかった。
その言葉の重さだけを受け取った。
真田が戻ったあと、佐藤がぼそりと言った。
「痛いな」
「何がですか」
「お前が現場と顧客の前で数字を語るのは、たぶん一番痛い」
「分かってます」
「いや、分かってない顔してる」
佐藤は笑った。
「でも、そこを超えないとお前はいつまでも“社長室の理屈の人”だ。営業と現場に嫌われてもいいから、一回ちゃんと前に立て」
杉崎は非常階段の窓越しに、黒くなった滑走路の方角を見た。
遠くで灯りがひとつ、滑るように動いていく。
何を残し、何を捨てるのか。
顧客を選ぶこと。
そのための条件を定義すること。
そして、それを人の勘ではなく、データと流れの設計で支えられる会社へ変えること。
その輪郭はまだ粗い。
だがもう、戻れないところまで来ている気がした。
翌朝、杉崎の机には雨宮からメールが届いていた。
件名は短い。
営業・支店向け 荷主別採算速報ダッシュボード(試作)
本文には、こうだけ書かれていた。
「まだ粗いですが、見るだけならいけます。人が集計しなくても、ここまで出せます。」
杉崎はすぐにファイルを開いた。
簡素な画面だった。だが、その簡素さがかえって鮮烈だった。
荷主ごとの売上、粗利、営業利益、例外対応件数、請求の特殊度、支店別内訳。
いままで会議のたびに人が集めて、Excelで整えて、説明のために作っていた数字が、そこでは“見るための形”になっている。
杉崎は、しばらくその画面を見つめた。
選別は、会議室だけでやる話ではない。
日常の判断の速度そのものを変えなければ、会社は変わらない。
そう思った。
彼は立ち上がり、窓の外に目をやった。
朝の物流センターでは、もうトラックが動き始めている。
仕事はある。
だが、仕事があることと、正しい仕事をしていることは違う。
そしてこの会社は、ようやくその違いを見始めようとしていた。
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