小説「SaaSの死」第8章 囲い込み

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 七月に入ると、外の人間が急に増えた。

 それは社内に正式通達が出たわけではない。だが、本社ビルの受付で見かける顔ぶれが少しずつ変わった。見慣れないスーツ、見慣れない名刺、見慣れない笑い方。
 会社が揺れるとき、匂いに鋭い連中は必ず集まってくる。
 銀行。
 コンサル。
 SIer。
 SaaSベンダー。
 投資家。
 誰も「獲物を狙っている」という顔はしない。むしろ逆だ。皆、助けに来た顔をしている。
 そこがいちばん厄介だった。

 月曜の朝、真田恒一の机の上には三冊の提案書が並んでいた。
 一冊目は、早見恒一が率いる大手コンサルの再建支援提案。黒い表紙に銀文字で、「Corporate Transformation Acceleration Program」とある。
 二冊目は、藤堂恒一のSIerによる「既存資産有効活用型・段階的刷新構想」。
 三冊目は、片桐真理のSaaS企業から出された「AI拡張型 業務高度化スイート導入提案」。

 杉崎遼はそれらを順に眺めながら、言いようのない既視感を覚えていた。
 どれも資料としてはよくできていた。
 危機認識は鋭い。
 打ち手ももっともらしい。
 言葉も洗練されている。
 だが、どこか決定的に嫌な感じがした。
 それは中身以前に、匂いだった。
 相手の問題を解く前に、自分たちの商売の残し方を考えている匂い。

 真田がソファに腰を下ろし、ネクタイを少し緩めた。
「今日一日で全部来た」
 淡々とした声だったが、うんざりしているのは分かった。
「ずいぶん早いですね」
 杉崎が言う。
「早いんじゃない」
 佐藤龍一が会議室の隅から口を挟んだ。
「待ってたんだよ」

 佐藤はいつものように、いかにも“正式メンバーではない人間が一番深いところに座っている”顔をしていた。灰色のジャケット、濃い色のシャツ、コーヒーはブラック。会議が始まる前から提案書の付箋だけはびっしり貼ってある。
 杉崎は少し苦笑した。
 たしかにその通りだろう。
 会社が採算改革に踏み込み、ホワイトカラー再編の気配が出た時点で、外部プレイヤーにとっては警報が鳴ったのだ。
 この会社が本当に変われば、自分たちの席が減る。
 だから、その前に囲い込みに来た。

「まずは早見だな」
 真田が黒表紙の提案書を杉崎に投げた。
 重い。文字通り、物理的にも重かった。

 最初の三十ページは危機認識に割かれていた。燃料高、低利益構造、人手不足、資金繰り悪化。数字は正確だった。むしろ腹立たしいほど正確だった。
 次の五十ページで、打ち手が出てくる。

  • 全社BPR
  • 営業改革
  • SCM最適化
  • 基幹再構築
  • データレイク構築
  • 横断KPIマネジメント
  • PMO設置
  • Change Management Office設置
  • 役員報告会の週次運営
  • 全社コミュニケーションプログラム

 見慣れた言葉が並んでいた。
 杉崎がいた世界の言葉だった。
 その意味も、効き目も、そしてどこで空回りしやすいかも知っている言葉だった。

「綺麗ですね」
 杉崎が言うと、真田は鼻で笑った。
「綺麗すぎる」
 佐藤が言う。
「これな、再建案に見えるけど、本質は違う」
「違う?」
 杉崎が聞く。
「案件化の設計図だよ」
 佐藤はページをめくりながら言った。
「本当に止血が必要な会社に対して、まず立てるべき問いはそんなに多くない。どこで利益を失ってるか。どこを標準に寄せるか。どの仕事を人がやらなくてよくするか。そこに絞るべきなんだ。でもこれは違う。テーマを広げて、プログラムを大きくして、役割を増やしてる」

 杉崎は黙っていた。
 分かっていた。
 自分もかつて、この作り方をしていた。
 テーマを束ね、大義を大きくし、関係者を増やし、時間軸を三年に広げる。そうすると、短期の本質的な問いが少しずつ見えにくくなる。
 その分だけ、案件としては立派になる。

「早見は、俺らを救う気がないわけじゃない」
 杉崎が言った。
「たぶん、本気で“これが正しい”と思ってる」
「そうだろうな」
 佐藤は頷いた。
「でも、正しいことと、今この会社に必要なことは違う」

 真田がページを閉じた。
「早見には今週末会う。表向きは礼を尽くす」
「中に入れるんですか」
 杉崎が聞く。
「入れない」
 真田は即答した。
「少なくとも、主導権は渡さない」

 次に藤堂恒一の提案書を開く。
 こちらはもっと露骨だった。
 表紙は地味だが、中身には御用達SIerらしい臭いが満ちている。

  • 現行資産最大活用
  • 既存基幹との整合性確保
  • 段階的機能追加
  • リスク最小化のための個別接続
  • 既存運用を踏襲した移行設計

「要するに」
 杉崎が言った。
「複雑さをそのまま残して、追加開発でつなぎましょう、と」
「そういうこと」
 佐藤が言う。
「APIで横につないで標準化されると、この人たち困るんだよ。だから“安全に”“現場に配慮しながら”って言いながら、結局は個別接続と例外保存に持っていく」

 そこへ雨宮恒一が少し遅れて会議室に入ってきた。
 ノートPCを抱えたまま、申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、請求管理の件で少し」
「ちょうどいい」
 真田が言った。
「これ見てくれ」

 藤堂の資料を受け取った雨宮は、数ページ読んだだけで苦い顔になった。
「これ、結局また中間ファイルが増えますね」
「だろ?」
 佐藤が言う。
「マスタ統一は後回し、個別接続で暫定運用、検証は別途。これ、全部“人がつなぐ余地”を残してる」
 雨宮は資料を閉じた。
「管理部門の工数削減とは真逆です」
「でも、管理部門には刺さるんですよ」
 杉崎が言った。
「今のやり方をあまり壊さずに進められます、って顔をしてるから」
「そしてその結果、また壊さずに死ぬ」
 佐藤が言う。
 部屋の誰も反論しなかった。

 三冊目の片桐真理の提案書は、最も今っぽかった。
 色数も多く、画面イメージも洗練されている。SaaSベンダーらしい勢いと軽やかさがあり、導入のスピード感を前面に出している。

  • 営業向けAIアシスタント
  • 経理向けAIオプション
  • 問い合わせ対応チャットボット
  • 部門別ダッシュボード
  • ドキュメント生成自動化
  • ライセンス追加による早期展開

 片桐は会議にオンライン参加しており、画面越しに微笑みながら説明を始めた。
「いま御社に必要なのは、大きな構想ではなく、すぐに使える成果です。私たちのプラットフォームなら、既存の運用を大きく崩さずに、各部門でAIの効果を早期に出せます」

 その言い方は巧みだった。
 崩さずに。
 早期に。
 各部門で。
 社内戦争のあとでは、誰にとっても魅力的に聞こえる言葉だ。

「具体的には」
 片桐が続ける。
「営業部門には提案書ドラフトと顧客要約。経理には請求確認支援。総務には問い合わせ自動応答。段階的にIDを増やしながら、必要に応じて他部門へ広げられます」

 杉崎はその“IDを増やしながら”という一言に反応した。
 佐藤も同じだったようで、机の上のペンを止めた。

「質問いいですか」
 佐藤が画面に向かって言った。
「もちろんです」
 片桐は笑顔を崩さない。
「その設計だと、結局部門ごとにAI機能が載るだけですよね」
「はい。まずはスピーディに成果を出すために――」
「で、営業と経理と請求と問い合わせは、最終的にどうつなぐんですか」
 片桐の笑顔がほんの少しだけ固まる。
「必要であれば順次連携を検討します」
「順次、っていつ?」
「要件次第です」
「つまり、いまはつながらない」
 佐藤は平然と言った。
「それ、便利な部品が増えるだけで、会社の流れは変わらないよね」

 画面の向こうで、片桐の表情がわずかに引き締まった。
「まずは部門単位で成功体験を作るのが重要だと考えています」
「それ自体は間違ってない」
 今度は杉崎が口を開く。
「でも、今回うちがやりたいのは、部門ごとの省力化だけじゃありません。部門間の受け渡し、重複入力、問い合わせ起点の業務断絶まで含めて減らしたいんです」
「その場合でも、まずは私たちのプラットフォームを――」
「そのプラットフォームで、他SaaSとAPIレベルでどこまで標準接続できますか」
 杉崎が畳みかける。
 片桐は即答しなかった。
 答えられないわけではない。だが、その答えをした瞬間、部門別ライセンス拡大の話が主軸からずれることを理解しているのだろう。

 会議が終わった後、真田は端末の画面を閉じた。
「分かった」
 短い一言だった。
 分かったのはSaaSの機能ではない。
 彼らが何を守ろうとしているか、だった。

「全員、同じことしてますね」
 雨宮がぽつりと言った。
「何がだ」
 真田が聞く。
「表向きは“改革支援”です。でも本音は、自分たちが減る前に席を確保しに来てる」

 その言葉に、佐藤が笑った。
「若いのに嫌なことをちゃんと言うな」
 雨宮は苦笑しただけだった。

 夕方、杉崎は早見と会うため、都内のホテルラウンジへ向かった。
 真田は同行しなかった。
 「お前が先に話を聞いてこい」と言われたのだ。

 早見恒一は、十年前と変わらず完璧な身なりをしていた。
 細身のスーツ、癖のない髪型、穏やかな笑顔。
 グラスに入った炭酸水の置き方まで整っている。
 杉崎を見ると、懐かしそうに微笑んだ。

「久しぶりだな、遼」
「ご無沙汰しています」
「聞いてるよ。ずいぶん大変な現場にいるらしい」
「そうですね」

 早見は雑談を長引かせなかった。すぐに本題へ入る。
「提案書は見た?」
「見ました」
「率直にどう思った」
 杉崎は少し考えた。
「完成度は高いと思いました」
「でも?」
「いまのうちには大きすぎる」
 早見は微笑みを崩さなかった。
「大きすぎるか。君らしい答えだな」
 グラスを置く。
「だが、遼。本気で会社を変えるなら、大きくやるしかない。部分最適の改革をいくつ重ねても、最終的には会社は戻る。組織も、人も、既存ベンダーも、みんな元に戻そうとする。だから最初に大きなフレームで押さえないとダメなんだ」

 杉崎はその言葉に、一瞬だけ自分の昔を見た。
 たしかにそういう局面もある。
 だがいまの羽田物流は違う。
 大きくやる時間も、金も、人の余白もない。

「戻るのを防ぐために必要なのは、大きいことじゃないと思っています」
 杉崎が言う。
「何だ?」
「戻れない設計です」
 早見の眉が、ほんの少しだけ動いた。
 杉崎は続ける。
「部門ごとに大きな構想を被せるんじゃなくて、SaaS、データ、API、AIを横断でつないで、人が間を埋めなくても回る仕事の型を作る。それができれば、戻りたくても戻れない」

 早見は数秒黙り、それから笑った。
「君は昔より、ずっと事業会社の人間らしいことを言うようになったな」
「褒め言葉ですか」
「半分はね」
 早見はグラスを持ち上げた。
「もう半分は、危ういと思っている。君のやろうとしていることは、コンサルが描く変革よりずっと痛い。顧客も、部門も、ベンダーも、一気に敵に回す」
「そうかもしれません」
「そうだよ」
 早見は穏やかに言った。
「だから最後は、もっと大きな傘が必要になる。そのときは声をかけてくれ。昔のよしみで、悪いようにはしない」

 杉崎はその言い方に、懐かしさと反発を同時に覚えた。
 悪いようにはしない。
 その言葉が通用する世界に、かつて自分はいた。
 だが今は違う。
 悪いようにしない、の中身が、誰にとっての“悪くない”なのかを、もう自分は知っている。

 ラウンジを出たあと、杉崎は駅へ向かわず、しばらくホテルの外を歩いた。
 夏の夜の都心は、どこか磨かれすぎていて現実感が薄い。
 ガラス張りのビル、静かなタクシー乗り場、きれいな植え込み。
 その景色の中で、羽田近くの倉庫街と、そこにいる管理部門や現場の顔が、妙に遠く感じられた。

 そのとき、佐藤から電話が入った。
「どうだった」
「相変わらずでした」
 杉崎が言う。
「綺麗だったか」
「綺麗でした」
 佐藤は笑った。
「じゃあこっちの勝ちだな」
「何でですか」
「綺麗な提案は、汚れた現場を救えないからだよ」

 杉崎は少し黙ってから言った。
「でも、向こうの言う“大きな傘”が必要になる局面はあるかもしれません」
「あるだろうな」
 佐藤はあっさり認めた。
「でも今じゃない。今必要なのは、傘じゃなくて配線だ」
「配線?」
「そうだ。SaaSを部品にして、データをつないで、AIを横に流して、人がやってるつなぎ仕事を剥がす。その設計を先にやる。あいつらが怖がってるのもそこだよ」

 杉崎は歩道橋の上で足を止めた。
 夜の道路をヘッドライトが流れていく。
 配線。
 たしかにそうだ。
 いままでの会社は、人が配線だった。
 営業と請求のあいだも、請求と会計のあいだも、現場と管理のあいだも、人がつないでいた。
 だから人が減れば会社が止まった。
 逆に言えば、そこをシステムとデータとAIに置き換えられれば、ホワイトカラーの仕事は大きく変わる。

「見えてきました」
 杉崎が言う。
「何が」
「第9章です」
 佐藤は笑った。
「いま小説でも書いてるのか」
「いえ、こっちの話です」
「ならちょうどいい。明日、朝から設計会議だ。綺麗な提案を見た後だからこそ、汚くても本物の設計図を描こう」

 通話が切れたあとも、杉崎はしばらくその場に立っていた。
 囲い込みは、これからもっと激しくなるだろう。
 大手コンサルは大きい物語で包もうとする。
 SIerは複雑さを残そうとする。
 SaaSベンダーは部門別の便利さで切り取ろうとする。
 彼ら全員が、それぞれ別の言葉で、同じことをしている。
 人が配線であり続ける会社を、延命しようとしているのだ。

 ならば、こちらが描くべきなのは一つしかない。
 人を配線から解放する設計図。
 SaaSの席数を増やすのではなく、SaaSを部品として並べ、APIで流し、AIで横断し、データで見る会社の設計図。

 羽田へ戻る電車の窓に、自分の顔がぼんやり映った。
 疲れている。だが、不思議と頭は冴えていた。
 戦いの相手は、ようやくはっきりしてきた。
 外の敵だけではない。
 “導入”という言葉で変革した気になれる時代、そのものだ。

 杉崎は胸のポケットから小さなメモ帳を取り出し、立ったまま一行だけ書いた。

 SaaSを入れるな。流れを作れ。

 それを見つめながら、彼は次の章の入口にようやく立った気がした。

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