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朝八時二十七分。
羽田物流ホールディングス本社、十二階の会議室には、まだ半分ほどしか人が集まっていなかった。杉崎はコーヒーを片手に席につき、何となく正面の大型モニターを見た。画面には、見慣れた経営ダッシュボードが表示されている。売上高、営業利益、拠点別採算、車両稼働率、顧客別粗利、未回収債権、事故件数。数年前なら、この数字を出すために何人もの社員がExcelを集め、数字を突き合わせ、会議前日の夜まで資料を作っていた。それが今では、各システムからAPIでデータが集まり、自動的に更新される。その変化だけでも、当時の杉崎には革命のように思えた。しかし、この数か月で、その風景さえ古くなり始めていた。
八時三十分。モニターの右側に、小さなウィンドウが開いた。
《経営管理エージェント》
機械的ではない、落ち着いた声が会議室に流れる。
「おはようございます。昨夜十八時から本日八時までに、二千四百十八件の定型業務を処理しました」
杉崎は思わず顔を上げた。
「二千四百……?」
森下航平が笑った。
「昨日から物流子会社三社も対象に入れましたから」
AIは続けた。
「うち、自動処理可能と判定した案件は二千四百十四件です。人間による判断が必要な案件は四件あります」
画面が切り替わった。大口顧客からの緊急値下げ要請。不採算路線からの撤退判断。重大クレームに対する補償条件。神奈川県内の新物流拠点への設備投資。
真田社長が時計を見た。
「じゃあ、今日はこの四件をやろう」
会議が始まった。
杉崎は、しばらく画面を見ていた。二千四百十八件。そのうち、人間が処理するのは四件である。以前なら、二千四百十八件すべてに、誰かの手が触れていた。入力する人、確認する人、転記する人、承認を依頼する人、メールする人、催促する人、別のシステムへ登録する人、数字を集める人、数字を説明する人。それらの大半が、いつの間にか消えていた。
人が消えたわけではない。
作業が消えたのである。
*
その日の午後、杉崎は森下に呼ばれた。
「ちょっと見てもらいたいものがあります」
森下の画面には、チャットのような画面が開いていた。
「営業用のエージェントです」
「また何か作ったのか」
「正確には、作ったというより、つないだという方が近いですね」
森下は入力欄に文字を打った。
《高波フーズから、来週水曜に通常より三百ケース追加したいと連絡が来た。対応可能か確認して》
数秒後、画面に文字が並び始めた。
《確認します》
《CRMから高波フーズの契約条件を取得しました》
《過去十二か月の出荷実績を確認しました》
《来週水曜の車両稼働予定を確認しました》
《対象配送センターの処理能力を確認しました》
《追加車両一台が必要です》
《協力会社三社の空き車両を確認しました》
《最安値は東都運送。追加原価は84,000円です》
《契約単価を適用した場合、追加売上は103,500円、限界粗利は19,500円です》
《既存契約の最低粗利基準を満たします》
《対応可能です》
そして最後に、
《顧客への回答案を作成しました。送信しますか?》
と表示された。
杉崎は黙っていた。森下が杉崎を見る。
「どうです?」
「これ……営業担当は、何をした?」
「質問しただけです」
「CRMは?」
「エージェントが読んでいます」
「運行管理は?」
「読んでいます」
「協力会社への確認は?」
「APIで照会しています」
「採算計算は?」
「原価データと契約条件から自動計算です」
「メールは?」
「承認すれば送ります」
杉崎は背もたれに体を預けた。
「何もしてないじゃないか」
森下が少し笑った。
「そうなんです」
その言葉に、杉崎は妙な違和感を覚えた。褒めるべきなのか。恐れるべきなのか。まだ、自分でも分からなかった。
森下が画面を指した。
「これまでは、システム同士をAPIでつなぎましたよね。でも結局、人間はそれぞれのシステムを見ていた。Salesforceを開いて、運行管理を開いて、会計を開いて、BIを開いていた」
「そうだな」
「今度は違います」
森下はホワイトボードに書き始めた。人間。その下にAIエージェント。さらにその下に、CRM、運行管理、請求、会計、勤怠、契約管理、ナレッジ。そして、それらを横につなぐ線に「MCP / API」と書いた。
杉崎は腕を組んだ。
「上下が逆になったな」
森下が振り返る。
「そうです」
「人間がSaaSを使うんじゃない」
「はい」
森下は言った。
「エージェントがSaaSを使うんです」
杉崎はしばらくホワイトボードを見ていた。
かつて会社には、システムごとに操作方法を知っている人が必要だった。営業システムに詳しい人、会計システムに詳しい人、倉庫管理システムに詳しい人、請求システムに詳しい人。そしてシステムとシステムの間を、人間がつないでいた。コピーして、貼り付けて、Excelに落として、メールを送って、電話をして、確認する。それを、彼らは何年もかけてなくしてきた。
「SaaSがなくなるわけじゃないんだな」
杉崎が言った。
森下は頷いた。
「むしろ必要です。顧客、契約、請求、会計。正式なデータを置く場所は必要です」
「でも」
杉崎はホワイトボードを見た。
「人間からは、見えなくなる」
「そういうことです」
後ろから声がした。
「SaaSが死ぬっていうより、人間から姿を消すんだな」
佐藤龍一だった。いつの間にか会議室の入口に立っていた。
杉崎が笑った。
「聞いてたんですか」
「面白そうだったからな」
佐藤はホワイトボードの前まで来た。
「これからSaaSの一番大事な役割は、画面じゃなくなる」
「System of Recordですね」
森下が答えた。
「そう。会社の事実を持っていることだ」
佐藤はペンを取り、AIエージェントの横に「考える」と書いた。SaaSの横には「事実」と書いた。そして人間の横には、少し考えてから「目的」と書いた。
その日の杉崎には、その三文字の意味がまだよく分かっていなかった。
*
問題が起きたのは、その三日後だった。
午前十一時十二分。杉崎のスマートフォンが鳴った。水沢からだった。
「杉崎さん、今どこですか」
声が硬い。
「本社です」
「すぐ来られますか」
「何かあった?」
「AIが、東陽食品の出荷を止めました」
杉崎は立ち上がった。
東陽食品は、羽田物流グループにとって上位十社に入る顧客だった。取引は十五年以上。全国の冷凍食品を扱い、年間売上は数億円。その東陽食品から入った緊急出荷依頼を、受注管理エージェントが拒絶していた。
理由は単純だった。売掛金の支払遅延である。
会社の信用管理規程では、一定額以上の債権が一定期間を超えて未回収となった場合、新規取引を停止することになっていた。エージェントは規程を読み、会計システムから売掛金残高を取得し、請求システムから支払期限を確認し、CRMから新しい注文を検知した。そして、
《信用管理基準を満たさないため、新規受注を停止しました》
と処理した。
正しかったのである。
少なくとも、システム上は。
「なんで勝手に止めるんですか!」
会議室で水沢が声を上げた。
雨宮も譲らない。
「勝手じゃありません。信用管理規程通りです」
「あの債権は未払いじゃありません」
「会計上は未回収です」
「単価改定で揉めていて、先方と協議中なんです。営業本部長も知っています」
「そんな情報、どこに入っているんですか」
水沢が言葉を止めた。
「……メールです」
「誰の?」
「私と営業本部長と先方です」
雨宮はため息をついた。
「それをAIがどうやって知るんですか」
沈黙した。
杉崎はPCを開き、処理ログを確認した。エージェントは、決められた情報を取得していた。決められた規程を参照していた。決められた条件に照らし、決められた処理を実行していた。
誤作動ではない。幻覚でもない。暴走でもない。
正しく動いていた。
だからこそ、厄介だった。
*
午後二時。
緊急会議が招集された。真田、佐藤、杉崎、雨宮、水沢、相沢、森下。法務責任者と内部監査責任者も参加した。
森下が処理ログを説明した。
「技術的なエラーはありません。エージェントは信用管理規程に基づいて、正しく判断しています」
水沢が言った。
「でも、間違った判断です」
「ビジネスとしては、そうです」
「だったらAIにそこまでやらせるのが間違いなんじゃないですか」
法務責任者も頷いた。
「取引停止は相手に与える影響が大きすぎます。自動化すべきではないと思います」
雨宮が反論した。
「でも、人間が処理していた時だって規程上は停止です」
「人間なら事情を確認します」
「その事情が個人のメールにしかなかったんですよ」
また沈黙した。
佐藤が椅子の背にもたれた。
「AIが暴走したんじゃないよ」
全員が佐藤を見た。
「会社が決めてなかったんだ」
水沢が眉を寄せた。
「決めてなかった?」
「そう。規程には『支払期限を過ぎたら止める』と書いてある。でも、『条件交渉中の債権をどうするか』は書いてない。人間がやっていた頃は、それでも回ったんだよ」
佐藤はホワイトボードの前に立った。
「営業が経理に電話する。経理が営業本部長に聞く。『東陽さんは今回だけ特別です』と言う。部長が『じゃあ通して』と言う」
一本の線を書く。
「会社の正式なルールじゃない。人間関係で回してたんだ」
誰も反論しなかった。
「AIにはそれがない。空気を読んで、“今回だけ”は通じない」
杉崎は、東陽食品の処理ログをもう一度見た。そして、ようやく気づいた。
問題はAIではない。
AIによって、これまで見えなかった会社の曖昧さが表に出たのである。
人間が間に入っていたから、曖昧でも動いていた。例外処理、暗黙知、個人判断、電話、メール、根回し、忖度。それらが会社という機械の隙間を埋めていた。AIは、その隙間を埋めてはくれない。
杉崎が言った。
「AIエージェントを導入するって、AIを賢くすることじゃないのかもしれませんね」
真田が杉崎を見た。
「どういうこと?」
「会社の判断基準を決めることなんじゃないでしょうか」
杉崎は立ち上がり、ホワイトボードに書いた。
「どこまでAIに判断させるのか。どこから人間が判断するのか。例外とは何なのか。誰が責任を持つのか」
最後に大きく囲んだ。
AIに何をさせ、何をさせないか。
真田は腕を組んだまま、しばらくそれを見ていた。
「それを決めよう」
その一言で、次の仕事が始まった。
*
翌週。
作戦室のホワイトボードは、久しぶりに文字で埋まった。かつて、この部屋ではシステム構成図を書いた。どのSaaSを残すのか。何を捨てるのか。どのデータをどこに置くのか。APIで何をつなぐのか。
今回は違った。
書かれているのは、人間とAIの境界線だった。
森下が五つのレベルを書いた。
Level 0 情報を探す
Level 1 判断案を作る
Level 2 処理案を作り、人間が承認する
Level 3 定められた条件内なら自動実行する
Level 4 複数業務を横断して自律実行する

「経費精算」
杉崎が言った。
雨宮が答える。
「規程内ならLevel 3」
「請求書発行」
「Level 3」
「入金消込」
「例外がなければ4でもいい」
「既存顧客からの定型受注」
水沢が答えた。
「条件内なら3」
「値引き」
「粗利率と金額に上限を設定して3。それを超えたら2」
「取引停止」
水沢と雨宮が顔を見合わせた。
雨宮が答えた。
「2ですね」
水沢も頷く。
「必ず人が見る」
「採用」
相沢が即答した。
「1まで」
森下が聞いた。
「候補者のスクリーニングも?」
「情報整理はいいです。でも、採る、採らないに影響する判断は人がやります」
「評価は?」
「1」
「配置転換」
「1」
杉崎が笑った。
「厳しいですね」
相沢は笑わなかった。
「人の人生に関わることですから」
その言葉で、部屋の空気が少し変わった。
AIエージェントの議論は、いつの間にかシステムの話ではなくなっていた。何を機械に任せるのか。何を人間に残すのか。企業が何を大切にしているのか。その境界を決める作業になっていた。
*
休憩時間。
相沢が杉崎に声をかけた。
「一つ、気になっていることがあります」
「何です?」
「若い人です」
杉崎は椅子を引いた。相沢が座る。
「昔は、新人が見積を作っていましたよね」
「そうですね」
「間違えて、先輩に怒られて、原価の意味を覚えた。請求書も作った。契約書も読んだ。顧客から怒られた。倉庫にも行った」
杉崎は黙って聞いていた。
「今、その仕事をAIがやり始めています」
「そうですね」
「AIが調べて、AIが計算して、AIが案を作る。人間は『承認』を押す」
相沢は杉崎を見た。
「その人は、十年後に何を知っているんでしょう」
杉崎は答えられなかった。
「仕事って、処理・作業だけじゃないんですよ。作業をしながら、人は覚えていたんです」
その言葉は、杉崎の中に残った。
効率化。自動化。生産性。何年も、それを追い続けてきた。無駄な作業をなくす。人を単純作業から解放する。その方向が間違っているとは思わない。
しかし、仕事をなくしたとき、そこで一緒に失われるものはないのか。
「難しいですね」
杉崎が言った。
相沢は頷いた。
「だから、AIに仕事を取られない人を育てる、という話ではないと思うんです」
「と言うと?」
「AIが作業をする会社で、人はどう育つのか。それを考えないといけない」
杉崎は、その言葉を手帳に書いた。
*
それから一か月。
羽田物流グループでは、AIエージェントの権限が少しずつ広がっていった。
早朝の欠車をエージェントが検知する。代替車両を探し、協力会社へ照会し、契約条件を確認し、採算を計算し、顧客への連絡文を作る。一定条件内なら、そのまま自動で手配する。人間が目を覚ましたときには、処理が終わっていることも増えた。
債権回収、請求、発注、勤務シフト、定型見積、契約更新、経営数値の異常検知。業務は一つずつ、静かにエージェントへ移っていった。
それでも、SaaSは残っていた。むしろ以前より重要になっていた。顧客の正式情報はCRM。契約の正式情報は契約管理。請求の正式情報は請求システム。会計の正式情報はERP。従業員の正式情報は人事システム。
AIが自由に動けば動くほど、「何が事実なのか」が重要になったのである。
ある日、森下が言った。
「生成AIの性能が上がるほど、System of Recordは重要になりますね」
杉崎が頷いた。
「会社の事実まで生成されたら困るからな」
隣で佐藤が笑った。
「いい言葉だ」
そして、いつものように少しだけ付け足した。
「考えるところはAIでいい。でも、事実は作らせるな」
杉崎はその言葉も手帳に書いた。
*
四月の経営会議。
真田は、AIエージェント運用方針の最終案を眺めていた。資料の最後には三つの原則が書かれている。
一、事実はSystem of Recordに置く。
二、AIには可能な限り作業を渡す。
三、責任までAIに渡したことにはしない。
真田は三番目を指した。
「これ、いいな」
杉崎が言った。
「最後まで議論になりました」
「AIの判断精度が人間を超えたらどうする、ってやつ?」
「はい」
真田は資料を閉じた。
「超えるんじゃない?」
全員が真田を見る。
「もう、一部では超えてるだろ。俺より正確な数字を出す。俺より過去の契約を覚えてる。俺より早く計算する。そのうち、俺より正しい経営判断をするかもしれない」
佐藤が言った。
「社長、失業ですね」
「困ったな」
少し笑いが起きた。
真田は続けた。
「でもな」
会議室が静かになる。
「『AIが決めました』は、経営では使わない」
杉崎は顔を上げた。
「AIがどんなに賢くても、それを使うと決めたのは俺たちだ」
真田は三番目の原則を指で叩いた。
「作業は渡す。責任は渡さない」
その日の会議で、AIエージェント運用方針は承認された。
*
数日後。
朝八時三十分。いつもの経営会議が始まった。
《おはようございます》
経営管理エージェントが報告する。
《昨夜から今朝までに、通常業務三千百六十二件を処理しました。人間による判断が必要な案件は三件です》
画面には、北海道向け共同配送網への大型投資、主要顧客から提示された新しい長期契約条件、地方拠点の統廃合と従業員配置が表示された。
真田が言った。
「三件か」
そして全員を見回した。
「じゃあ、始めよう」
杉崎は、その風景を眺めていた。
三千百六十二件を処理するための会議ではない。三件を考えるための会議である。
ふと、数年前のことを思い出した。会議資料を作る人。数字を集める人。数字が違う理由を調べる人。システムからCSVを落とす人。Excelに貼る人。メールで確認する人。会議のために働く人。
それが当たり前だった。
SaaSを導入すれば会社が変わると思っていた。
違った。
SaaSは部品だった。APIは、その部品をつないだ。データが流れるようになった。AIが、その上を走り始めた。
そして今、AIは情報を探すだけではない。考え、判断し、システムを操作し、仕事を前へ進めている。
人間が仕事をして、AIが手伝う。
その関係さえ、少しずつ逆転していた。
では、人間には何が残るのか。
杉崎は、以前使っていたノートを開いた。最後のページには、これまで書き続けてきた言葉が残っている。
採算を切る。
間接費を削る。
時間を買う。
戻さない。
人を配線にしない。
杉崎は、その下に新しい一行を書いた。
作業を渡す。責任は渡さない。
ペンを置く。
相沢の言葉を思い出した。
AIが仕事をする会社で、人はどう育つのか。
答えは、まだ分からない。おそらく、これから何度も考えることになる。
ただ、一つだけ分かることがあった。
AIエージェントカンパニーとは、人のいない会社ではない。人間の代わりにAIを置く会社でもない。
人間がやらなくてもいい作業を、できる限り機械へ渡す。その代わりに人間は、何を目指すのかを決める。何を正しいとするのかを決める。どこまで任せるのかを決める。例外を引き受ける。そして最後には、責任を負う。
そういう会社なのかもしれない。
杉崎は会議室の前方を見た。画面では、AIが投資案件について市場データ、過去実績、資金繰り、物流量予測を整理していた。
しかし、最後の問いだけは画面の中にはなかった。
この会社は、どこへ行くのか。
それを決めるのは、まだ人間だった。
少なくとも、今は。
杉崎はノートを閉じた。
窓の向こうでは、羽田を離陸した飛行機が、朝の空へ小さくなっていった。
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