小説「SaaSの死」第10章 導入

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 設計図は、人を勇気づける。
 だが、設計図だけでは一つも請求書は出ない。

 七月半ば、羽田物流ホールディングス本社七階の大会議室は、以前よりもずっと散らかっていた。
 ホワイトボードにはマスタ統一項目、API接続順序、パイロット対象部門、例外処理方針、問い合わせ分類、権限設計といった文字が消しきれないまま残っている。机の上にはノートPC、印刷された画面遷移図、付箋、冷めたコーヒー、使いかけの充電ケーブル。
 綺麗な会議室ではなかった。
 ようやく、仕事をしている部屋になっていた。

 第一パイロットの対象は三つに絞られていた。
 請求・支払・会計の連携。
 営業採算ダッシュボード。
 社内ナレッジ検索と問い合わせ一次対応のAI化。
 この三つが動けば、利益、工数、意思決定速度の三つに同時に効く。そういう設計だった。

 杉崎遼は朝八時前に会議室へ入った。
 すでに雨宮恒一がいて、二つの画面を行き来しながら眉間に皺を寄せている。
 片方には請求管理システムのデータ一覧、もう片方には会計連携用のマッピングテーブル。
 モニター越しでも、問題が起きているのは分かった。

「だめですか」
 杉崎が聞くと、雨宮は顔を上げずに答えた。
「顧客コードが揃っていません」
「どのレベルで?」
「思っていたより悪いレベルでです」
 雨宮は一つ息を吐いた。
「請求システム上の得意先コード、営業管理上の顧客コード、会計側の補助コード、支店側の案件コード。全部が一対一じゃない。しかも古い得意先ほど途中で採番ルールが変わってる」

 杉崎は黙った。
 第9章で佐藤が言った通りだった。
 マスタが揃わない会社は、最後まで人が配線になる。
 そしていま、その意味を、画面の上でそのまま見せつけられていた。

「暫定変換テーブルで吸収はできます」
 雨宮が続ける。
「でも、今回それをやると、また人が照合の最後の砦になります」
「やらない」
 杉崎は即答した。
「最低限の暫定対応はいい。でも、原則は統一です」
「分かってます」
 雨宮は苦笑した。
「分かってるんですけど、今日の夕方までに請求サンプルを流したいんですよね」
「流したいです」
「じゃあ今日は痛い日になります」

 九時になると、関係者が揃い始めた。
 情報システム担当課長、請求管理課の担当者、会計チーム、営業管理、総務、人事、AI担当の森下航平、水沢美咲はオンラインで参加している。
 そして十時少し前、佐藤龍一がコンビニの袋をぶら下げて現れた。
「おはよう」
 そう言って、机の上に栄養ドリンクとおにぎりを雑に置く。
「今日、誰か泣くかもしれないから先に糖分入れとけ」

 場の何人かが苦笑した。
 笑いがあるだけ、まだ救いがあった。

 午前中は請求・支払・会計連携の検証に消えた。
 問題は予想以上に根深かった。
 請求側では顧客名が略称、会計側では正式名称。
 案件番号は枝番管理が部門ごとに違う。
 消費税の端数処理ルールが旧顧客ごとに残っている。
 支店独自で使っていた補助科目の名残が、今も一部データに生きている。
 しかも、それを誰がどう使っているか、完全には誰も把握していない。

 森下が画面を見ながら呟いた。
「これ、人間が間に入らないと回らなかった理由がよく分かりますね」
「感心してる場合じゃない」
 雨宮が苦笑混じりに言う。
「このままだと、連携じゃなくて事故になります」

 杉崎は席を立ち、ホワイトボードの前へ行った。
 大きく二つ書く。

 今日流すもの
 今日捨てるもの

 会議室が少し静まる。
 杉崎は振り返らずに言った。

「今日全部を救うのはやめます」
 マーカーを置かずに続ける。
「顧客コードと案件コードが一対一で整理できる請求だけ先に流す。個別例外帳票、旧採番ルール、支店独自処理は今日の対象から外す」

 請求管理課の担当者がすぐに言った。
「それだと、実際の運用を再現できません」
 杉崎は振り向いた。
「再現しません」
 少しだけ間を置く。
「今日は、流せる標準を先に作ります。例外を全部救うのは、また今度会社を遅くするやり方です」

 その瞬間、部屋の何人かが明らかに戸惑った。
 従来なら、例外まで含めた“完璧な移行”を目指すのが普通だったからだ。
 だが今回の設計は違う。
 完璧な再現ではなく、先に標準を通す。
 その思想が、初めて具体の作業判断に落ちてきた。

 佐藤がそこへ乗る。
「遼の言う通りだ」
 栄養ドリンクの蓋を開けながら言う。
「一〇〇%再現してから始めるプロジェクトは、大体一〇〇%終わらない。まず七割の標準を流して、例外を“残す価値があるか”で後から選別しろ」

 会議室の空気は、納得と不安の中間で揺れた。
 だが動きはじめた。
 情報システム担当が対象データを絞り、雨宮が会計連携の試験パターンを修正し、請求管理チームが対象得意先のリストを洗い直す。
 誰も楽そうではなかった。
 だが、これまでのような「全部を見てから」の停滞ではなかった。

 昼前、今度は営業採算ダッシュボードの検証に移った。
 これは一見、請求連携より平和に見えた。
 だが中身は別の意味で厄介だった。

 モニターには、荷主別の売上、粗利、営業利益、例外対応件数、未請求、支店別内訳、営業担当、運行負荷スコアが一覧で並んでいる。
 森下が用意した試作版は、まだUIも荒い。
 だが、その粗さが逆に数字を剥き出しにしていた。

 戸倉恒一が会議室に入ってきたのは、そのタイミングだった。
 呼んだのは杉崎だった。
 逃げずに見せるべきだと思ったのだ。

 戸倉は画面を見るなり、立ったまま腕を組んだ。
「これを営業に見せるんですか」
「見せます」
「かなり危険ですよ」
「何がですか」
「数字だけが一人歩きする」
 戸倉は画面の東都リテールの行を指した。
「この赤い数字だけ見たら、現場も営業も“切れ”って圧力だと感じる。条件改善の余地とか、戦略的意味とか、現場の事情は見えない」

 杉崎は一瞬、その指摘に頷きそうになった。
 たしかにその通りだった。
 見える化は、見せるだけでは足りない。
 何を見せるかと同じくらい、どう読ませるかが重要だ。

「じゃあ足しましょう」
 雨宮が言った。
 全員がそちらを見る。
「条件見直し状況、値上げ交渉ステータス、例外負荷の主因、改善余地の有無。数字だけじゃなく、“何が打ち手か”も見せる」
「できるか?」
 戸倉が聞く。
「全部は無理です」
 雨宮は正直だった。
「でも、営業が“赤字一覧”として受け取るよりはいい」

 杉崎はその瞬間、ダッシュボードの役割を少しだけ理解し直した。
 ただ数字を見せるのではない。
 動き方まで含めて、日常の判断に埋め込む。
 つまりこれは、報告ツールではなく、行動の型を変える装置なのだ。

 午後二時からは、社内ナレッジ検索と問い合わせ一次対応のAIパイロットが始まった。
 総務、人事、経理に寄せられる問い合わせを分類し、ルール、申請手順、FAQ、社内規程、過去問い合わせ履歴を検索対象にして、生成AIに一次回答をさせる。
 森下が画面を操作し、モニターに質問を打ち込んだ。

 「出張旅費の精算期限は?」

 数秒後、AIが回答案を返す。
 社内規程の該当条文、期限、例外条件、関連申請フォームのリンクまでついている。
 部屋の空気が少し緩む。
 これならいける、と思わせる程度には良かった。

 だが次の質問で空気が変わった。

 「得意先A社の請求書を、先月分だけ特別様式にしたい」

 AIはもっともらしい回答を返した。
 だがその内容は、今年廃止された旧運用を参照していた。
 請求管理担当がすぐに言う。
「だめです。これ、古い手順です」
 森下の顔が曇る。
「ナレッジに残ってるんですね……」
「残ってる、というか」
 佐藤が言う。
「会社が古いやり方をちゃんと殺してないんだよ」

 その一言が刺さった。
 AIが間違ったのではない。
 会社の中に、死んでいない古い運用が残っていたのだ。
 そしてAIは、それを律儀に拾っただけだった。

「ここ、かなり重要ですね」
 相沢が言った。
「AI導入って、結局ナレッジの掃除でもあるんだ」
「そういうことです」
 杉崎が答える。
「現行を全部救わないっていうのは、システムだけじゃなくて、言葉や知識にも及ぶんですね」

 午後三時過ぎ、水沢美咲からオンライン越しに声が飛んだ。
「現場から一個言わせてください」
 全員の視線がモニターに向く。
「いま見てる画面、情報が多すぎます」
 営業採算ダッシュボードのことだった。
「支店長と営業が毎日見るなら、まずは見る指標を絞らないと使われません。荷主別利益、未請求、例外件数、その三つくらいで十分です」

 杉崎は少し迷った。
 せっかくここまで見える化したのだから、できるだけ多く載せたいという気持ちがあった。
 だがそれは、まさに過去のDXが犯してきた過ちでもある。
 全部見せることで、結局誰も使わなくなる。

「美咲さん、絞るなら何を捨てますか」
 杉崎が聞く。
「運行負荷スコアは二段目でいいです。まず営業に必要なのは、“どこで利益を失っていて、どこが止まっていて、何に手を打つか”です」
 戸倉がそこで初めて小さく頷いた。
「それなら、営業は見ます」

 その一言は大きかった。
 ダッシュボードが“作る資料”から“使う道具”へ変わる瞬間だった。

 夕方五時半。
 最初の請求・会計連携テストが流れた。
 対象を絞ったとはいえ、実際にデータが会計側へ落ち、手作業なしで一連の流れが通ったのは初めてだった。
 会議室の空気が、一瞬だけ本当に軽くなった。

「通った」
 雨宮が、ほとんど独り言のように言う。
 誰もすぐには声を出さなかった。
 通るはずのものが通っただけだ。
 だが、この会社では、その“当たり前”が長く人の手でしか成立していなかった。

 杉崎は画面を見ながら、奇妙な感覚に包まれていた。
 これは単なるシステム連携ではない。
 会社のどこかに貼りついていた“人の手でなければつながらない”という前提が、一枚剥がれたのだ。

 そのとき、長峰恒一が会議室の外に立っているのが見えた。
 ドアは開けない。
 中をちらりと見て、そのまま通り過ぎる。
 杉崎はそれを見て、少しだけ背筋が冷えた。
 導入が進めば進むほど、反発も強くなるだろう。
 例外を残したい人間。
 旧運用へ戻りたい人間。
 “やっぱり無理だった”と言いたい人間。
 その全員が、これから本気で動く。

 会議室が片づき始めたころ、佐藤が壁際で栄養ドリンクを飲みながら言った。
「今日の感想を一言で言うとだな」
 誰も返事をしない。
「導入は、理想を現実で殴る作業だ」

 何人かが笑った。
 その笑いには疲労も混じっていたが、敗北感はなかった。

 杉崎は自分の席に戻る前に、会議室のホワイトボードを見た。
 朝書いた「今日流すもの」「今日捨てるもの」の文字が、消されずに残っている。
 その下に、いつの間にか森下が小さく書き足していた。

 今日、少し会社が軽くなった。

 杉崎はその文字をしばらく見つめていた。
 たしかにそうだった。
 まだ何も終わっていない。
 むしろこれから、もっと多くの混乱が来る。
 だが今日、確かに一つだけ証明された。
 人が間を埋めなくても、流れる仕事はある。
 そして、それが増えれば、この会社のホワイトカラーの役割は本当に変わる。

 窓の外は、もう夕方の色を失いかけていた。
 空港へ向かう光が低く動き、ビルのガラスに反射する。
 導入は始まった。
 設計図は、ようやく現実に触れた。
 次は、この変化を戻さないことだ。

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