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最初に壊れたのは、会議室の空気ではなかった。
挨拶の仕方だった。
それまで羽田物流ホールディングス本社の廊下では、管理本部の人間と社長室の人間がすれ違えば、だいたいは軽く会釈くらいは交わしていた。営業も現場も、表向きの礼儀は残っていた。
だが六月の終わりが近づく頃には、その小さな摩擦が、目に見える形になり始めていた。
目が合っても、先に逸らす。
会議招集メールへの返信が遅くなる。
資料依頼に「確認中です」が増える。
雑談が減る。
そして、相手のいないところでだけ、言葉が増える。
社長室は人を減らすつもりらしい。
AIを入れて管理部門を半分にするらしい。
自然減なんて言っているが、結局は整理だ。
いまのうちに異動先を考えた方がいい。
噂は、事実よりも少しだけ過激な形で広がる。
それが噂の機能でもある。
杉崎遼は、七階の執務室でその空気を肌で感じていた。
数字はまだ社長室と再建プロジェクトの中だけに留めているつもりだった。だが実際には、もう留まっていない。管理部門工数の削減率、再配置の想定、自然減の吸収幅、AI適用可能業務。
会議室の外に出た数字は、たちまち人の顔を持つ。
そして、その顔はたいてい、自分ではない誰かに似る。
午前九時、真田恒一の指示で緊急の経営会議が開かれた。
参加者は、真田、杉崎、佐藤龍一、長峰恒一、相沢由紀、戸倉恒一、三崎恒一、雨宮恒一。
いつもの会議室ではなく、役員フロア奥のボードルームだった。長机の中央に水差しが置かれ、窓の外には雲の低い空港方面の空が広がっている。
誰も雑談しなかった。
最初に口を開いたのは相沢由紀だった。
人事部長は資料を開かず、まっすぐ真田を見た。
「先に申し上げます」
声は静かだったが、よく通った。
「社内の動揺が想像以上に広がっています。特に管理部門では、自分たちの仕事が“つなぎ”や“接着剤”としてしか見られていないのではないか、という不信感が出ています」
杉崎は何も言わなかった。
それは、おそらく事実だった。
少なくとも、前回の会議で自分たちがそう見たことは間違いない。
相沢は続けた。
「私は、効率化や再設計に反対しているわけではありません。ですが、いまの社内には、『半分で足りる』という言葉だけが一人歩きしています」
そこで初めて、杉崎の方を向く。
「その言葉が、どれだけ人の心を壊すか、分かっていますか」
問いというより、確認だった。
杉崎は少し遅れて答えた。
「分かっているつもりです」
「つもりでは足りません」
相沢の声色は変わらない。
「社員は数字ではありません。自然減三十人分、再配置二十五人分、再教育二十人分。そういう整理は必要かもしれません。ですが、その言い方をされた側は、“自分はどの箱に入るのか”としか聞きません」
長峰がそこで口を挟んだ。
「私も、由紀さんの懸念はもっともだと思います」
予想通りの声だった。
「会社として危機感を持つことは重要です。しかし、社内の不安をここまで高めるような進め方が正しいのかは、慎重に考える必要があるでしょう」
杉崎はその言葉を聞いて、腹の底で何かが熱くなるのを感じた。
“慎重に考える必要がある”
長峰はいつも、その一言で時間を買う。
だが今この局面で時間を買っているのは、会社ではなく自分の秩序だ。
「進め方の問題にするのは簡単です」
杉崎はできるだけ平板に言った。
「でも現実に、この会社の管理部門業務の相当部分が、受け渡し、例外処理、報告作成に寄っているのは事実です」
「その言い方ですよ」
相沢が静かに返す。
「その“事実”の扱い方を問うているんです」
沈黙が落ちた。
杉崎は一瞬、自分の言葉の硬さに気づいた。
正しいことを言っているつもりで、相手の足元を見ていない。
佐藤に指摘された“青さ”が、また顔を出していた。
そのとき、戸倉が腕を組んだまま言った。
「営業も現場も、もう分かってますよ」
全員の視線が向く。
「社長室は、本気で会社の形を変えようとしてる。そこまでは伝わってます。でも同時に、“今までのやり方で会社を支えてきた人間は、古いから退けと言われてる”って受け取ってる人も多い」
杉崎を見た。
「それが管理部門だけの話だと思ってるなら、見誤ってます」
三崎恒一が低く息を吐く。
「現場でもざわついてる」
「現場までですか」
真田が聞く。
「そりゃそうでしょう」
三崎は即答した。
「本社が人を減らす話をしてるって聞けば、次は現場だと思う。誰だってそう考える」
杉崎はそこで、初めてこの問題の広がりを正確に掴んだ気がした。
管理部門工数の削減は、本来は管理部門の再設計の話だった。
だが組織の中では、そうは受け取られない。
“人が減るらしい”
その一言が、全部門に等しく波及する。
「だから私は昨日から、言い方を変えようと言っているんです」
相沢が言った。
「“半分で足りる”ではなく、“役割を変える”と。再配置、再教育、自然減でまず吸収する、と」
「由紀さん」
長峰が柔らかく言う。
「それは理想としてはそうでしょう。ただ、現実には再配置で受け皿が足りるのか、不安に思う社員もいる」
「不安を広げているのは誰ですか」
相沢は長峰を見た。
初めて、声に少しだけ棘が乗った。
「え?」
「“社長室は人を切る気だ”という話が管理本部に広がった経路を、私はだいたい把握しています」
会議室の空気が、一段冷えた。
長峰は一拍置いてから微笑んだ。
「由紀さん、それは少し言い過ぎでは」
「言い過ぎかどうかは、今は問題ではありません」
相沢は引かなかった。
「問題なのは、会社の危機をどう扱うかです。私は雇用を軽く見たくありません。ですが、だからといって、危機を先送りして最後にもっと大きな整理になるのも嫌です」
杉崎は驚いて相沢を見た。
この人は、ただの雇用防衛派ではなかった。
人を守りたい。だが、そのために現実から目を逸らすこともしたくない。
だからこそ苦しんでいるのだ。
真田がそこで初めて深く息を吐いた。
「ここで整理しよう」
全員が静まる。
「この会社は、管理部門の工数圧縮が必要だ。そこは事実だ」
短く切る。
「同時に、人の扱いを乱暴にすれば会社は壊れる。そこも事実だ」
視線を一人ずつに流す。
「だから二つとも引き受ける。数字も、人もだ」
佐藤が椅子にもたれたまま言った。
「その通り」
彼は珍しく冗談を言わなかった。
「で、その二つを両立するには、言葉を整えるだけじゃ足りない。順番を作らないといけない」
杉崎が聞く。
「順番?」
「そうだ」
佐藤は指を一本立てた。
「一つ目。先に“何が消える仕事なのか”を整理する」
二本目。
「二つ目。“その先に残る仕事”を示す。例外判断、現場支援、顧客対応、AI運用、分析、教育。役割の再定義だ」
三本目。
「三つ目。自然減、再配置、再教育の順番を先に切る。いきなり整理を匂わせるな」
四本目。
「四つ目。それでも残る痛みは、経営が自分で引き受ける」
最後の一本が重かった。
経営が自分で引き受ける。
つまり、社長室も人事も管理本部も、誰かに押しつけて逃げるな、ということだ。
真田は静かに頷いた。
「その順番で行く」
杉崎の方を見る。
「杉崎、お前は数字を作る責任者だ。だが今後は、人の役割定義も一緒にやれ」
「……分かりました」
即答したものの、心のどこかで重さが沈んだ。
数字を作ることと、人の役割を変えることは、似ているようでまるで違う。
前者は論理で進められる。
後者には、論理だけでは届かない領域がある。
会議が終わった後、杉崎は真田に呼び止められた。
他のメンバーが出ていったあと、窓際に立つ真田の背中は思ったより疲れて見えた。
「気にしてるな」
真田が振り向かずに言った。
「何をですか」
「人を傷つける側に回ることだ」
杉崎は答えなかった。
それが図星だったからだ。
「俺も同じだ」
真田は言う。
「だから気にするな、とは言わない」
そこでようやく振り向く。
「ただ、気にして動けなくなるな」
杉崎は壁際の椅子に腰を下ろした。
真田は続ける。
「会社を救うための改革は、必ず誰かの役割を揺らす。これはきれいごとでは済まない。だが、役割を変えずに会社が沈めば、最後はもっと大きく人を傷つける」
短く区切る。
「だから、迷うのはいい。だが誤魔化すな」
その言葉は、厳しいというより、乾いていた。
失敗を知っている人間の言葉だった。
夜、杉崎は本社近くの小さな居酒屋で佐藤と向かい合っていた。
焼き鳥の皿はすでに二本分空き、テーブルの隅にはラベルの剥がれかけた焼酎瓶がある。店内では、テレビの野球中継が音を絞って流れていた。ドラゴンズが東京ヤクルトスワローズに五対〇から七回に一挙七点取られて五対七と逆転されるを見て、佐藤は「平常運転と言いたいところだが、これはひどすぎる。ファンをやめようと何度も思うが、また火曜日の夕方になると今度こそ勝つと思い、応援してしまう。中毒かもしれないし、人生そのものかもしれないし、愛なのかもしれない」と言った。
「ちょっと何を言っているのか分かんないですけど・・・ それはさておき、今日、相沢さんにやられました」
杉崎がグラスを置きながら言う。
「いいことだ」
「いいことですか」
「お前が数字の側からしか見なくなりかけてた」
佐藤は串を置く。
「そこを止めてくれる人間が社内にいるのは、かなり幸運だぞ」
杉崎は苦笑した。
「でも、正直、怖いですよ」
「何が」
「このまま進めれば、本当に会社は変わると思います」
言いながら、自分でも驚くほど率直だと思った。
「でも同時に、今いる人たちの役割をかなり壊すことになる」
「そうだろうな」
佐藤はあっさり言った。
「それが嫌なら、変革なんて言葉は使わない方がいい」
杉崎はしばらく黙った。
店の外を、空港帰りらしいタクシーがゆっくり通る。
カウンター席ではサラリーマンが小声で上司の愚痴を言っている。
どこにでもある夜だった。だが自分の中だけ、どこか別の温度になっていた。
「龍一さんは、そういうの怖くなかったんですか」
杉崎が聞く。
「若い頃は、怖いって感覚より先に突っ走ってた」
佐藤は笑った。
「あるべき論を振りかざしてな。組織の政治とか、人の感情とか、そんなもん後からついてくると思ってた」
「それで失敗した」
「だいたいな」
佐藤は焼酎を口に運ぶ。
「しかも人に深入りしすぎて、あとで刺されたことも何回かある。特に女絡みは最悪だった」
杉崎は思わず笑った。
「笑うな。実話だ」
「いや、らしいなと思って」
「お前も似たようなもんだろ」
「……否定はしません」
二人で少しだけ笑ったあと、佐藤は真顔に戻った。
「でもな、怖いって分かった上で引き受ける方が、昔よりはましだ」
「引き受ける、ですか」
「そうだ。人を整理するんじゃない。役割を動かす。SaaSを増やすんじゃない。つなぎ仕事を消す。そこをブレずにやれ」
グラスを指で回す。
「そのうえで、どうしても残る痛みは、都合よく“会社のため”で包むな。痛いものは痛いと言え」
杉崎はその言葉を聞きながら、会議室で相沢が言ったことを思い出していた。
“つもりでは足りません”
あの一言は痛かった。
だが、必要だったのだろう。
スマートフォンに、雨宮から短いメッセージが入った。
管理部門工数の可視化ダッシュボード、試作できました。明日朝見ますか。
杉崎はそれを見て、しばらく画面を閉じなかった。
社内では人の不安が膨らんでいる。
一方で、データは少しずつ見えるようになり始めている。
その二つが同時に進んでいる。
それが、このプロジェクトの現実だった。
「どうした」
佐藤が聞く。
「いえ」
杉崎はスマートフォンを伏せた。
「数字も、人も、どっちも逃げられないなと」
佐藤は小さく笑った。
「やっと、そのステージまで来たってことだ」
店を出ると、夜風は少しだけ涼しくなっていた。
羽田へ降りる飛行機の灯りが低く流れ、そのたびに路上の影がかすかに動く。
会社の中では、もう戦争が始まっている。
露骨な怒号はない。誰かが机を叩くわけでもない。
だがそれでも、これは十分に戦争だった。
守りたいものが違う人間たちが、それぞれの正義を持って同じ会社の中で向かい合っている。
杉崎は歩きながら思った。
ここから先は、数字を出すだけでは足りない。
その数字が、人の役割をどう変えるのかまで示さなければ、改革はただの脅しになる。
逆に、そこまで示せれば、恐怖は少しだけ設計に変わるかもしれない。
だがそのためにはまず、会社がどんな型で仕事をするのかを描かなければならない。
今の断絶を、ただ丁寧に写し取るのではなく、別の流れへ乗り換える設計図を。
SaaS、API、生成AI。
その言葉が、ようやく“便利な道具”ではなく、“会社の神経系を作り直す部品”として見え始めていた。
杉崎は、夜空の下で小さく息を吐いた。
社内戦争は避けられない。
だが、戦争のまま終わらせるつもりはなかった。
その先に、設計図を描かなければならない。
人を減らすためではなく、人がつなぎ役として消耗しない会社へ乗り換えるための設計図を。
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