小説「SaaSの死」第9章 設計図

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 変革には、二種類の会議がある。
 一つは、何が悪いかを確認する会議。
 もう一つは、どう作り変えるかを決める会議だ。

 羽田物流ホールディングスでは、この数週間ずっと前者ばかりが続いていた。
 売上はあるのに利益がない。
 不採算荷主が利益を食っている。
 過去のDXは複雑さを保存しただけだった。
 管理部門の仕事の多くは、システムとシステムのあいだを人が埋めることで成立していた。
 そこまでは、もう誰の目にも見え始めていた。
 だが、それだけでは会社は変わらない。
 問題が見えた先で、何を捨て、何を残し、どんな流れに乗り換えるのか。
 そこを描くのが、この日の会議だった。

 本社七階の大会議室は、いつもより机が少なかった。
 長机を島型に並べるのではなく、壁際に寄せ、中央に大きな余白を作ってある。ホワイトボードが三面並び、その前に可動式モニターが二台。会議というより、作戦室に近い配置だった。
 杉崎遼は入室した瞬間、少しだけ胸が高鳴るのを感じた。
 ようやくここまで来た、という感覚があった。
 対立は十分起きた。
 抵抗も、圧力も、銀行の催促も、既存プレイヤーの囲い込みも見た。
 ならば、もう後戻りする理由はない。
 設計図を描くしかない。

 参加者は絞られていた。
 真田恒一、杉崎遼、佐藤龍一、雨宮恒一、水沢美咲、相沢由紀、情報システム担当課長、それにAI活用を提案してきた若手の森下航平。
 長峰恒一も戸倉恒一も入っていない。
 呼ばなかったのだ。
 いま必要なのは合意形成ではなく、先に型を描くことだと、真田が判断したのである。

 佐藤龍一は、開始十分前からホワイトボードに大きな文字を書いていた。
 左端に、こうある。

 現行を写すな

 その下に、もう一行。

 会社の流れを描け

 真田が席につき、全員を見渡した。
「今日は、業務の棚卸しをする会議じゃない」
 短く言う。
「次の会社の型を決める会議だ」

 杉崎はそこで、わずかに背筋を伸ばした。
 この言い方は良い、と思った。
 型。
 まさにそうだった。
 これまでの議論では、どうしても“いま何をしているか”に引っ張られがちだった。だが、いま必要なのは、“これからどんな型で仕事をする会社になるのか”を決めることだ。

 佐藤がホワイトボードの前に立つ。
「最初に結論を言う」
 マーカーを持ったまま振り向いた。
「今回、As-Isを精密に描くのはやめる」

 水沢美咲が少しだけ首を傾げる。
「現状把握は必要じゃないですか」
「必要だよ」
 佐藤は即答した。
「でも、必要なのは“いま何をしてるか”を全部保存するための把握じゃない。何がムダで、何が例外で、何が部門の断絶を生んでるかを見抜くための把握だ」

 雨宮が手元の資料を開きながら頷いた。
「つまり、現行業務の写経はしない、と」
「そういうこと」
 佐藤は笑った。
「汚い地図を高解像度で描いても、汚い地図ができるだけだ」

 森下航平がノートPCの前で少し身を乗り出す。
「じゃあ先にTo-Beを描くんですか」
「描く」
 佐藤ははっきり言った。
「しかも今回は、“現行を改善した未来”じゃない。SaaS標準、API連携、AI横断活用を前提にした、別の仕事の型だ」

 その瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった。
 抽象論ではない。
 ここから先は、具体の設計に入る。

 杉崎がモニターを操作すると、画面に一枚のスライドが映し出された。
 タイトルは簡潔だった。

 新業務・システム・データ基盤 全体構想(案)

 その下には四層の構造が描かれている。

 業務SaaS層。
 API/iPaaS連携層。
 BI・分析層。
 生成AI活用層。

 水沢が画面を見つめたまま言った。
「これ、部門ごとのSaaSを全部置き換える話じゃないんですね」
「置き換えない」
 杉崎が答える。
「少なくとも、全部はやらない。現場管理、請求、経費、会計、CRM、勤怠、工数、支払、配車計画……機能ごとに必要なSaaSは残す。でも、主役じゃない」
「主役じゃない?」
 相沢が聞き返した。
「はい」
 杉崎は頷いた。
「主役は流れです。SaaSは部品です」

 その言葉を口にした瞬間、自分の中でも何かが定まるのを感じた。
 そうだ。
 今まで会社は、アプリケーションの集合だった。
 営業には営業の画面、請求には請求の画面、総務には総務の画面。
 それを人がまたいで仕事をしていた。
 だがこれから必要なのは、画面の数ではなく、流れだ。

 佐藤がホワイトボードに四つの箱を書いた。

 SaaS
 API
 BI
 AI

「まず、SaaSは業務機能の器として残す」
 上の箱を叩く。
「ただし、ここで全部を完結させようとしない」
 次にAPIの箱を叩く。
「連携はここでやる。データ同期、イベント連携、ログ管理、異常通知。人がコピペしてた仕事をまずここに持っていく」
 次にBI。
「見るべき数字を、会議のたびに人が集計しなくていいようにする。経営、部門、支店、荷主、管理工数、未請求、例外件数。全部ここで見る」
 最後にAI。
「AIは部門別の便利機能じゃない。横断の知的OSだ。問い合わせ、検索、要約、文書ドラフト、分析支援、Text-to-SQL、異常値の説明補助。部門をまたいで使う」

 森下が興奮したように言う。
「つまり、AIを各SaaSのオプションとして入れるんじゃなくて、横で全部跨がせる」
「そう」
 杉崎が答える。
「部門ごとにAIを増やすんじゃない。会社の知的作業を横で支える」

 そこで相沢が、少し慎重な声で聞いた。
「でも、それってつまり、人が今やっている確認や問い合わせや資料作成の多くが、かなり薄くなるということですよね」
 誰もすぐには答えなかった。
 その沈黙が、そのまま答えでもあった。

 真田が口を開く。
「だからこそ、今日は設計を先に描く」
 相沢を見る。
「削減率から入るんじゃない。どんな仕事が残るかから入る」
 それから全員を見渡す。
「この設計図は、人を減らすために描くんじゃない。人が“つなぎ”として消耗しない会社にするために描く」
「そして、利益を獲りに行くために、数字を見て何を変えるかを考え、実行する組織と人に変わる」

 水沢が腕を組んだ。
「現場から言うと、それはすごく助かります」
 全員が彼女を見る。
「本社は本社でつないでるんでしょうけど、現場も同じです。支店は支店で、営業の条件変更、請求の確認、現場の例外、荷主からの問い合わせ、そのたびに誰かが走って埋めてる。だから、現場も“うちは特殊だ”って言い続ける限り、ずっと苦しいままです。利益の獲得を考えて動く前に、目の前の業務で手一杯なままです。」

 杉崎はその言葉に少し救われた。
 この設計が本社だけの合理化ではないことを、現場の側から言ってくれる人間がいる。
 それは大きかった。

 その後、具体の論点へ入った。
 まず決めたのは、何を残さないかだった。

 請求業務の個別Excel台帳は原則廃止。
 顧客ごとの帳票例外は、契約上・法令上の必須を除き標準化対象。
 営業の採算確認は属人的な集計ではなく、ダッシュボード参照前提。
 問い合わせ一次対応は、社内ナレッジ検索とAIドラフトを前提に再設計。
 会議資料の定型作成はAIドラフト+BI出力へ。
 SaaS間のCSV受け渡しは原則API化。
 部門ごとに保持していた独自コード体系は、全社共通マスタに統一。

 議論が進むにつれ、部屋の温度は少しずつ上がっていった。
 これは単なる夢想ではない。
 やろうと思えばできる。
 だが、やると決めた瞬間に、多くの現行業務が居場所を失う。
 だから設計図は、希望であると同時に爆弾でもあった。

 途中、情報システム担当課長が慎重に手を挙げた。
「一つ、懸念があります」
「何ですか」
 杉崎が聞く。
「マスタ統一です。顧客コードも案件コードも、支店によって歴史が違う。これを一気に揃えにいくと、かなり揉めます」
「揉めるだろうな」
 佐藤が頷いた。
「でもやる」
「理由を聞いてもいいですか」
 課長は真面目だった。反対したいわけではなく、現実の重さを知っているだけだ。
 佐藤はマーカーを置き、真正面から答えた。
「マスタが揃わない会社は、最後まで人が配線だからだよ」

 その言葉は、まっすぐだった。
 杉崎は思わずメモを取った。
 マスタが揃わない会社は、最後まで人が配線。

 議論はパイロットの領域にも及んだ。

 第一パイロット。
 請求・支払・会計連携。
 個別請求の例外を切り、API連携で請求データから会計までを流す。

 第二パイロット。
 営業採算ダッシュボード。
 荷主別売上、粗利、営業利益、例外負荷、未請求、支店別内訳を、営業と支店長が日常的に見られるようにする。

 第三パイロット。
 社内ナレッジ検索+問い合わせ一次対応。
 総務・人事・経理ルール、社内手順、FAQ、申請フローを生成AIで横断検索できるようにし、一次問い合わせを薄くする。

 第四パイロット。
 会議資料・報告ドラフト生成。
 BI出力とAIドラフトで、定型報告資料を半自動化する。

 森下が言った。
「この四つが回れば、かなり象徴的ですね」
「象徴じゃ足りない」
 杉崎が答えた。
「利益に効く必要がある」
 雨宮がすぐに続ける。
「請求と未請求、採算ダッシュボードは、数字に直結します。ここが動けば銀行にも見せられる」
 真田が頷いた。
「いい。そこだ」

 そのとき、会議室のドアがノックされた。
 秘書が入ってきて、真田にメモを渡す。
 真田が一読し、眉をわずかに動かした。

「長峰が、今日の会議内容の共有を求めてきた」
 部屋が少しざわつく。
 杉崎は即座に言った。
「まだ出せません」
「だろうな」
 真田は短く答えた。
「ただ、完全に隠すのも難しい」

 相沢が言う。
「管理本部には早めに言葉を整えた方がいいです。設計思想が伝わらないまま“例外を切る”“標準に寄せる”だけが広がると、また不安が先行します」
 杉崎は少し考え、それから頷いた。
「分かりました。まず私から説明します」
 佐藤がすぐに挟む。
「一人で行くな」
「え?」
「お前一人だと、理屈で押し切る顔になる」
 佐藤は平然と言った。
「由紀さんと雨宮も入れろ。役割の再定義と、数字の裏付けと、設計の話を一緒にしろ」
 相沢は少し意外そうな顔をしたが、反対はしなかった。
 雨宮も、小さく頷いた。

 午後四時を過ぎる頃には、ホワイトボードは文字で埋まっていた。
 残す価値のある例外。
 残さない例外。
 共通マスタ。
 APIイベント。
 BI指標。
 AI適用業務。
 再配置先候補。
 パイロット責任者。
 レビュー頻度。
 誰が見ても、もう戻れない段階に入っているのが分かった。

 最後に、真田が立ち上がった。
「これを、うちの新しい型のたたき台とする」
 静かに言う。
「まだ粗い。だが粗くていい。今必要なのは、現行を全部救うことじゃない。会社の流れを変えることだ」

 杉崎はその言葉を聞きながら、胸の内側で静かに震えるものを感じていた。
 これが設計図だ。
 画面を増やす計画ではない。
 システム案件でもない。
 会社の神経系を作り直す計画だ。

 会議が終わったあと、佐藤がホワイトボードを見ながらぽつりと言った。
「ようやくここまで来たな」
「長かったですね」
 杉崎が言う。
「いや」
 佐藤は笑った。
「ここからの方が長い」

 杉崎も笑った。
 たしかにその通りだ。
 設計図を描くのは気持ちがいい。
 問題は、その設計図に会社を乗せることだ。
 現場も、営業も、管理も、既存ベンダーも、全部がこの型に抵抗する。
 設計図は、ここから現実に殴られる。

 窓の外には、夕方の羽田方面の空が広がっていた。
 飛行機の灯が低く流れ、そのたびにガラスにかすかな反射が走る。
 杉崎は、ホワイトボードに残った一行を見た。

 現行を写すな。会社の流れを描け。

 ようやく、本当に戦うための武器を手に入れた気がした。
 あとは、それを現実にぶつけるだけだった。

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